聖書の御言葉 ルカ5

聖書箇所 ルカ5:16

 

5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

 

ここに書かれているように、イエス様は、荒野、現在で言うと、地下教会で祈られていました。

一般的には、認知されていない教会のことです。

 

「荒野に退いて」のところに、語りかけがあります。

荒野とは、食べ物も飲み物も人気も何も無い寂しい場所のことです。

荒野の反対は町や都です。

一般的に町や都には、建物をはじめ、日常に必要なものが揃っていて誰しもが便利な場所だと感じているはずです。

聖書で言われている、町や都というのは、会堂のある教会、あるいは、認知されている教会のことを指すと思われます。

町や都に、ずっと留まることも出来たはずなのに、わざわざそこを出られ、自ら荒野を選んで祈っておられました。

ちなみに、バプテスマのヨハネも荒野で悔い改めを呼びかけていました。

 

先に話しましたように、荒野とは、決して整えられた所ではありません。

雨や風をよけられるような、屋根も無いような過酷な場所とも言えます。

しかし、荒野、すなわち地下の教会にこそ、神様の御心があるのです。

 

このことは、今の時代、終末を生きるクリスチャンへの主からの警告であると思われます。

今は、不法の力が勢力を増してきています。

時代を正しく見るなら、嘘・偽りの教えや世的なものが、教会の中に入り込んできている時代です。

また、御言葉にも、不法の力はすでに働いているだとか、荒らすべき者が聖なる場所に立つのを見たら山へ逃げなさいとか言われています。

ちなみに、山とは、地下教会のことを指すと思われます。

「聖なる場所」も教会のことを言っています。

正統と言われている一般的な教会が荒らされるわけですから、同じような場所に逃げても意味が無い、その時にはそこから出て、地下教会に行きなさいと言われているのです。

なぜ、荒らすべき者が立つのでしょうか?

それは、クリスチャンがあまりにも不信を重ねてしまったからです。

聖書に書かれている御言葉よりも、人の教えや考えを優先したり、艱難前携挙をはじめとする聖書には書かれていない嘘・偽り・空想話を盲信し、御言葉に聞き従わないことに対する、神の怒りのゆえに、反キリストが擁立されるのです。

その結果、教会から、聖霊が追い出される時がくることを前もって語られているのです。

教会を出たほうが良いなどと言うと、「不信仰な!」と、思われるかも知れません。

しかし、聖書は、このことについて、明確に語られています。

 

そのように理解していくと、この時のイエス様が荒野に退かれて祈られていたということに合点がいくかと思います。

私たちは、今がどのような時代で、これから何が起きてくるのかということについて、御言葉と照らし合わせて理解する必要があります。

イエス様はこのように言われました。

「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」

この言葉は、クリスチャンに対して、語られたことです。

今の時代を正しく理解していないと、どこを歩んでいるのか、はたまた、どこへたどり着くのかについても分からなくなってしまいます。

つまり、闇の中を歩いているということになります。

このように申し上げるのはおこがましいのですが、レムナントキリスト教会では、一人でも多くのクリスチャンが光の中を歩むことが出来るように、今、まさに主が語っていることについて、主が開いて下さった啓示や御言葉から警告のことを発信させていただいています。

あらゆる先入観を捨てて、主に祈り、御言葉を通して、真に主が私たちに語っていることについて、正しくとらえていきたいと思います。

繰り返しになりますが、時代を正しく見分け、正しく御言葉につく人に、御心があります。

確かに、荒野には、食べ物も飲み物もありません。

しかし、このことは霊的なたとえであり、神様は荒野に住む人の避けどころとなり、神様の不思議や守りや助けによって、養っていただけるのです。

都は、一見、飲食には不自由ないように思われるかも知れません。

しかし、これからは、霊的に必ずしも良い影響を及ぼすものとは言えないのだと思います。

主が出なさいと言われた時に、荒野に退く歩みをする人に御心があることを理解し、主の導きに従って歩んでいきたいと思います。

 

※荒野に関する参照箇所

申命記1:31

また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」

 

申命記2:7

事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」

 

参照 使徒7:37,38

7:37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。

7:38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

 

教会の紹介をすることが主旨ではありませんが、レムナントキリスト教会は地下教会です。

私が、レムナントキリスト教会に行き始めたのは、2年前の秋でした。

きっかけは、エレミヤの部屋のホームページのメッセージでした。

それまで、キリスト教界で言われている常識とは、全然違うことが語られていて、はじめは、多少なりとも衝撃を受けました。

しかし、順番に読んでいくうちに、どれもこれも納得のいくものばかりでした。

なぜかと言うと、聖書から、解き明かされていることだからです。

半年ほど祈り、その後、主の導きによって、レムナントキリスト教会で礼拝に集うようになり、弟子の歩みに入り、働きを担わせていただけるようになり、感謝でした。

キリスト教界で語られていることが、すべてが嘘というわけではないのですが、聖書は、カソリックもプロテスタントも背教が起こり、多くのクリスチャンが信仰を捨てる時が来ることが前もって預言しています。

そのように考えていくと、教理に関して、吟味を怠ってはならないということを痛感させられます。

また、荒野にいるから大丈夫だと考えるのではなく、その中で、きちんと、主に従っていくこと、御言葉に堅くついていくことこそが安全であり、そのことを死守していく時に、主からの守りや助けが与えられていくのだと思います。

見ること、聞くことに注意し、主の視点で正しく時代を見分け、これから起きてくることについて、きちんと対応できるように、備えていきたいと思います。

また、すべての御言葉は、必ず成就するので、常に恐れを持って、主にお仕えしていかれたらと思います。

 

聖書の御言葉 ルカ4

聖書箇所 ルカ4:1-13

 

4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、

4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」

4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」

4:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、

4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。

4:7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

4:8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」

4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。

4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、

4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」

4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」

4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

 

イエス様は、様々な試みに遭われました。

上記の御言葉、あるいは聖書に書かれていることは、ほんの一部に過ぎないと思います。

なぜかと言うと聖書に「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」とあります。

このような書き方から、記されていない御業にプラスして、ありとあらゆる困難に遭遇されたことが読み取れるかと思います。

 

真に主につくクリスチャンの歩みは、この時のイエス様と同様に、悪魔による誘惑や試みの連続であることを理解する必要があります。

13節には、しばらくの間と書かれています。

悪魔は試みて、脈が無いと判断したらと、いったんは退きます。

しかし、何度も何度もしつこく来ます。

 

悪魔と呼ばれているサタンの特徴について少し見ていきたいと思います。

サタンは、聖書の御言葉をよく知っています。

その上で、クリスチャンを御心に反した方向へと歩ませようとします。

そのためには、手段はいとわずに、ありとあらゆる方法で繰り返し攻撃をしてきます。

今の終末の時代にサタンが頻繁に使う手段は惑わしを入れることです。

ちなみに、惑わしが赦されているのは、なぜでしょうか?

それは、神の民の背信のゆえのことです。

参照 Ⅱテサロニケ2:10,11

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

具体的には、御言葉、教理を曲げ、地獄は無い・艱難は通らない等、耳障りの良い方法を持ち込んで、備えを怠らせ、クリスチャンに的外れな歩みをさせるためです。

また、人間よりも知能が高く、すべての面において一枚も二枚も上手です。 

個々の人の弱点を知り尽くしていて、その人を堕落させるために、一番効果的な方法を持ち込ん

できます。

ちなみに、異邦人に対しては、どこまでもこの世につかせ、福音のことを知らせないようにします。

あるいは、知らせても、信じないように仕向けてきます。

しかし、何はともあれ、サタンの最大の目的は、クリスチャンの信仰を崩し、そして最も大切な永遠

の命を奪うことです。

 

ある意味、このことは、神様によって赦されていることも事実です。

なぜ、このようなことが赦されているのでしょうか?

理由について、いくつか、教えられたことについて、挙げていきたいと思います。

 

1.キリストの苦しみに少しでもあずかるためです。

苦しまなければ、キリスト御自身のことを、正しく理解出来ないからです。

神様のことを理解することによって、更に神様のことを身近に感じるようになっていきます。

2.クリスチャンの信仰の真価を問うためでもあります。

平常な状態、特に大きな問題もなく、順風な時というのは、信仰を保つのに、それほどの苦労はありません。

しかし、突風、つまり、試練や困難が来たときに、どのように対応するのか、自分の考えや思いを頼みとするのか、あるいは,神様を信じて、拠り頼んでいくのか?そのようなことを見るためです。

3.主の御業や栄光を見ていくためです。

自分ではどうにもならないようなことをはじめ、行き詰ったり、太刀打ち出来ないような困難や問題に遭遇した時に、クリスチャンは神様に祈りますよね。

そのような時に、お祈りを通して、神様は私たちに力を与え、助けてくださるのです。

このことを通して、主との信頼関係が更に深められていきます。

 

結論を申し上げると、私たちの、信仰や歩みが強められていくためです。

そして、栄光から栄光へと次第に神様の似姿に変えられていき、御国にふさわしい尊い器へとなっていくのです。

 

聖書にも、試練のことについては書かれています。

参照 Ⅰコリント10:13 ヤコブ1:2,12 Ⅰペテロ4:12,13

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

 

クリスチャンがどのような生涯を送っていったらよいのかというヒントを本日の聖書箇所から、得られるかと思います。

ポイントは、キリストが通った道を歩むことです。

キリストが通った道とは、いばらの道のことです。

聖書に書かれている細い道、試練、困難の道のことを指します。

参照 マタイ 7:14

命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

この道を選び、この道を通る者だけが、天の御国に入れることが理解できるかと思います。

具体的には、12弟子のように、イエス様と寝食を共にする歩みです。

真の教師であるキリストから訓練を受け、祈り、御言葉を通して主の御心を自らたずね求め、御心を行い、最後までキリストに忠実に従うことです。

 

悪魔の攻撃に対して立ち向かうクリスチャンに神様は目を向けられ、私たちが主に助けを求めて実際に立ち向かっていく時に、必要な助けや導きや力を与えてくださり、勝利させてくださいます。

このことは、必ずしも目に見えるものや、すぐに戦いの成果があらわされるものばかりではありませんし、時として、人間的には、敗北に見えることもあります。

しかし、御心の戦いであれば、主の時に、神様が勝利を取ってくださいます。

神様が義とすることを喜びとし、悪を憎むクリスチャンに御心があります。

悪魔は、この世的なことや空しいことに目を向けさせ、機会がある毎に、私たちクリスチャンをキリストから引き離そうと躍起になっています。

このことに正しく対応していくには、常に祈り、御言葉に触れ、御心を行っていくことです。

小さい門、狭い道を見出し、この道に従って歩むことを自ら決断していく人に御心があります。

主と共に悪に立ち向かい、クリスチャンの最終ゴールである天の御国を目指していきたいと思います。

 

弟子の歩みを通して、祈りや御言葉に触れる機会が多くなり、霊的に強められていることを感じています。

このことは、とても感謝です。

しかし、その分、敵の風当たりの強さも同時に体験させられています。

そのような時に、ふと、試練、困難、誘惑は、避けたいと思うことも度々あります。

でも、イエス様の公生涯は、そのような連続であったことを聖書から学び、主に従っていく以上は、避けられないものであることを理解しました。

私たちの目の前には常に祝福と呪いがあり、人間的には、呪いのほうを選んだほうが楽なことが多いように思います

でも、聖書には、キリストを信じるか信じないか、受け入れるか受け入れないかということからはじまって、祝福と呪い、生と死、狭い道と広い道かの、2つに1つしか選べないことが書かれています。

そして、死後、善であれ悪であれ、すべての人は裁かれ、天の御国か火の池かの、どちらかに入ることが決定付けられています。

主に従っていく限り、試練、困難の連続だと思います。

また、サタンは真理と逆方向の道を常に提供してくると思います。

しかし、サタンの示す道は明らかに滅びなので、そのことを念頭に置いて、常日頃、祈りや御言葉に触れて、聖霊の助けと導きと力によって、最後まで御言葉に従い、勝利していかれたらと思います。

聖書の御言葉 ルカ3

聖書箇所 ルカ3:21,22

 

3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 

上記御言葉を通して、「神様に愛されるクリスチャン」について見ていきたいと思います。

 

22節の「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」の御言葉から、イエス様は、神様の御心にかなっていたということが理解できます。

イエス様は神様の実子です。

一方、神の民であるクリスチャンも、神様の子供と言われています。

クリスチャンが神様のことを「天の父」と呼んでいることや、聖書の中で、神様がクリスチャンのことを「子」と呼んでおられるからです。

確かに、クリスチャンは、神様の子供です。

しかし、皆が神様に愛されているかというと、それはまた、別のようです。

言い方を変えると、神様の子供として受け入れられているかどうかということです。

なぜかと言うと、聖書の中に、花嫁が出てくるのですが、同じ花嫁でも、賢い花嫁と愚かな花嫁がいるからです。

花婿はキリストで、花嫁はクリスチャンのたとえですが、賢い花嫁も愚かな花嫁も、両方とも、クリスチャンです。

賢い花嫁はキリストと婚姻関係に入り、愚かな花嫁は花婿であるキリストに「わたしは、あなたがたを知らない」と、退けられてしまいました。

つまり、クリスチャンが皆、必ずしも神様に受け入れられているとは限らないことを、知っていただきたいのです。

このようなことを申し上げると、「えーっ、そんなことないよ!私はイエス様のことを信じているし、洗礼も受けている。しかも、毎週教会にも行って奉仕もしている。ううん、それだけではなくて、祈祷会や外部の集会にも参加している。だから、神様に愛されていて当然でしょう?!」と、大半のクリスチャンはおっしゃるかと思います。

過去、私も、そのような確信を抱いていた一人でした。

人間的な視点だと、確かに、そんな風に思うかも知れません。

また、キリスト教界では、そのことは常識とされています。

神様を信じ、イエス様を救い主として受け入れている人は皆、神様の子だと、神様に愛されていると・・・そのように考えるかと思います。

 

そこで、聖書で言われている、神様に愛される子供ということについて考えてみたいと思います。

先に申し上げたように、御心にかなうことが、神様に受け入れていただけることを、この箇所から読み取れるかと思います。

 

ここで、イエス様のことについて、触れてみます。

イエス様は私たちの罪の贖いをするために、神様でありながらも人として生まれ、この地上に来られました。

私たちと同じく、肉体を持って歩まれました。

しかし、1つだけ大きく異なる点がありました。

それは、生涯の中で、一度も罪を犯されなかったということです。

 

次に、イエス様が地上におられた時に、どのような歩みをされたのかについて、みていきたいと思います。

そのことから、神様の御心にかなう歩み、すなわち、神様の子となり、神様に愛されるためのヒントが得られるかと思います。

 

イエス様の歩みというのは、ほとんどの人から見て、歓迎されるものではありませんでした。

そもそも、神の民であるクリスチャンが、イエス様を受け入れられなかったのですから。

なぜでしょうか?

それは、クリスチャンが神様の前にどうしようもないほどに堕落した歩みをしていることや、聖書にも書かれているように、世の行いが悪いことについて、証をしていたからです。

結論から申し上げると、悪を憎み、常に、神様の義、すなわち、裁きについて語っていました。

その当時のクリスチャンの歩みは、神様の目から見て、良いものとは言えなかったのです。

神様の教えをないがしろにして、人間的な考えや思いに固執していたため、神様が示す道ではない、別の道を歩んでいたのです。

神の民が歩みを正すことが出来るように、イエス様は遣わされたのです。

福音書を読むと理解出来るように、その時代における問題点や悔い改めるべき点を、公生涯の中において、イエス様は語りました。

神様の愛だけではなく、むしろ、神様の裁きについて、忠実に語ったために、最後は、十字架にかけられてしまいました。

つまり、この世とは妥協せずに、十字架の死に至るまで、神様の御心に忠実に従いました。

そして、このことは、一人でも多くのクリスチャンを真の意味合いで、神様に立ち返らせ、義の道へと導かせるきっかけとなりました。

 

神様の裁きについて、宣べること、このことは、新約の時代においても、大半のクリスチャンに受け入れられるものでも喜ばれるものでもありません。

なぜかと言うと、今のキリスト教界は、神様の愛ばかりを強調し、肝心な裁きについて、ほとんど語らないからです。

特に、この終末においては、キリスト教界が聖書の御言葉をなおざりにして、聖書的には根拠の無い教理を多くのクリスチャンに浸透させています。

そのような状況の中で、真実のことだけに目を向けて、福音を宣べ伝えていくことは、ある意味、至難の業です。

例を挙げると、クリスチャンは、艱難時代は通らないとか、信じていれば、裁かれないとか、地獄は無い等の教えです。

そして、残念なことに、このような教えを吟味もせずに、ほとんどのクリスチャンは盲信しています。

でも、実際には、天の御国への道が狭いことは確かであり、地獄が実在すること、クリスチャンが艱難を通ること、そして、歩みを正していかなければ、滅んでしまうことが聖書には書かれているので、そのようなことを呼び掛けていくことに御心があります。

ただし、今の時代もイエス様の旧約の時代と同様、御言葉に焦点をあてて、話をしようとすると、残念なことに、大半のクリスチャンから拒否反応を示されてしまいます。

しかし、イエス様の時代のように、悪い時であっても、常に御言葉の視点に立っていくことに御心があります。

聖書の御言葉を信じて、時が良くても悪くても、御言葉を正しく宣べ伝えて行っていく人、そのような人が、神様から受け入れていただけるのだと思います。

御言葉に書かれていることは、必ずしも、私たちにとって、都合の良いものばかりではありません。

むしろ、人間的には意に反するようなことのほうが多いかと思います。

また、私たちは、完全ではないので、時には過ちや失敗を繰り返したり、罪を犯してしまうかもしれません。

しかし、そのたびに、主に赦しを求め、悔い改めながらも、真理と正面から向き合い、神様が喜んでくださることを心に留め、聖霊に助けを求めて、行っていく人に御心があります。

そうしたことが、祝福や恵みや人知を超えた喜びや平安を得ていくものともなります。

そして、それだけではなく、神様の御業や栄光がその人を通して顕著にあらわされ、尊い器として用いられていくようになります。

 

聖書に、このような御言葉があります。

 

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」

 

繰り返しになりますが、神様が喜ばれることは、人から受け入れられるものとは限りません。

この世は、サタンが支配しているので、むしろ、その逆のほうが多く、人からは反感をかってしまうことも覚悟する必要があると言ってもよいと思います。

しかし、真の意味合いで神様に従って歩む人こそが神様の子供とされ、受け入れていただけることを理解し、慎んで、御心を行っていきたいと思います。

 

ここ数年、聖書を読んで理解したことがありました。

それは、何かと言うと、2種類のクリスチャンがいるということです。

特に福音書では、イエス様が、たとえをつかって、2種類のクリスチャンを対比させている箇所が見受けられます。

Ex:良い魚と悪い魚、忠実なしもべと怠け者のしもべ、麦と毒麦、賢い花嫁と愚かな花嫁等

魚、しもべ、麦、花嫁は、いずれもクリスチャンを指すのですが、最終的な行き先が異なることを学びました。

良いとか忠実とか賢いと呼ばれているクリスチャンは、神様に正しく従い、義の実を結ばせ、結果として受け継ぐべきもの、天の御国に入ると思われます。

一方、悪いとか怠け者とか愚かというのは、神様の前に、的外れな歩みをしていた人、たとえば、聖書を正しく理解せずに、御言葉に無い教えを伝えたり、神様の前に正しい働きをしている人をカルト扱いしたり妨害したりして、真理に背いてしまったために、本来クリスチャンが入るべきところである天の御国から退けられてしまうことを言われているのではないかと思いました。

このことを知る以前は、クリスチャンは皆、光の中を歩んでいると思っていましたが、私自身が、闇の中を歩いていることに気づきました。

聖書の中に、「光が来たのに、それを受け入れなかった。人々は光よりも闇を愛した」とあります。

イエス様を単に信じていれば、それだけで、光の中にいて、神様に受け入れられていると長い間思っていましたが、そうではないことを教えられ、方向を変えることが出来ました。

このことは、私にとって、とても大きなことです。

更に、聖書について学び、祈りやメッセージや預言を通して、わずかでも御心をとらえ、聖霊の助けと導きによって、正しく歩んでいかれたらと思います。

 

聖書の御言葉 ルカ2

聖書箇所 ルカ2:25-35

 

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。

2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

 

シメオンのように、主から遣わされた預言者がいます。

この時、聖霊がシメオンと共におられたので、未来のことを告げることが出来ました。

今の時代も、多くの預言者はいます。

しかし、すべての預言者が必ずしも神様から遣わされた預言者とは限りません。

シメオンは、神様の前に正しく敬虔な歩みをしていたので、聖霊が言われていることを正しくとらえ、ヨセフとマリヤに語ることができました。

神様から預言者としての重要な任務を担い、その役目を果たすことが出来ました。

このことから、私たちも、神様の前に正しく歩むなら、用いられていきます。

御言葉にもあるように、どんなに卑しい器であっても、きよめられていくなら、尊い器として、用いられていくのです。

せっかくクリスチャンとして、歩んでいくなら、神様に用いられていくことは大切です。

そのために、神様の前に、常に正しく歩んでいきたいと思います。

 

また、29節を読むと理解出来るように、私たちクリスチャンが神様からの任務を果たしたら、この地上を去ることが、赦されています。

クリスチャン一人一人は、個々において、主からの召しが与えられています。

その召しに従って歩んでいくことに御心があります。

そのことによって、死後の行き先が大きく変わっていきます。

シメオンのように、神様の御心に則した歩みをした人は、天の御国を受け継ぎます。

しかし、常に神様に反発した歩みばかりを繰り返している人は、天国行きは危ないことを御理解いただきたいと思います。

たとえば、私たちが、マラソン大会に参加するとします。

皆が同じスタートラインに立つわけです。

きちんと、コースに沿って、完走した人は、ゴールに辿り着きます。

しかし、万一、コースから外れてしまったら、ゴールではない、別の所に行ってしまいます。

クリスチャンの信仰についても、同様のことが言えるのではないでしょうか。

洗礼を受け、クリスチャンの歩みをしていく、この時点では、どのクリスチャンもそれほどの大差はないと思います。

しかし、それ以降の歩みや最終的な行き先については、必ずしも同じ結論ではないように思います。

 

聖書には、私たちがどのように歩むべきかについて、書かれています。

聖書は、私たちの死後の行き先について書かれていると申し上げても、過言ではないかと思います。

死後の行き先は、天の御国か、そうでないか(火の池)のいずれかひとつです。

肉体はいつの日か、朽ちていきます。

しかし、魂は、永遠に生き続けるのです。

地上で、どのような歩みをしたかによって、その行き先は、神様によって、決定付けられてしまうのです。

誰も好き好んで、火の池には、行きたくないと思います。

ゆえに、現時点において、私たちは、天の御国に入れるよう、神様の御心に沿って歩んでいかなければなりません。

そうでないと、自分が思っていた結論と、全く違ってしまった、こんなはずではなかったと、後々になって、いくら悔やんでも、取り返しがつかないからです。

また、死は、突如として、やってきます。

自殺以外には、誰も、自分の寿命を延ばすことも、縮めることもできないからです。

地震や火災に備えたり、あるいは、病気にならないように、生活や健康のことをはじめ、この地上のことに配慮する人は多いかと思います。

生きていく上で、こういったことも必要かも知れません。

しかし、死後のことについて真剣に考え、備えている人はどれぐらいいるでしょうか?

クリスチャンであっても、案外、そのことに向き合っている人は少ないように思います。

イエス様は言われました。

「私に向かって主よ、主よと言う者が天の御国に入るのではなく、私の御心を行う者が入る」と、

はっきりとおっしゃっています。

また、天の御国に入る道は細く、見出すのは稀であるとも言われています。

今、多くのクリスチャンが、艱難の前に挙げられるから大丈夫だとか、悔い改めなくても天国へ行ける等、聖書に書かれていないことを盲信しているように思います。

本当にそうならいいのですが、残念ながら、聖書を読むと、そうではなさそうです。

今一度、聖書を調べ、祈りによって、主がどのように語っているかについて、吟味していただきたいと思います。

身近な人をはじめ、周囲のクリスチャンやキリスト教界がどう言っているかではなく、神様がどう言われているかについて、常に耳を傾けていくことに御心があります。

今の時代、クリスチャンが神様の御心に反した歩みを促すために、闇の勢力が、力を増し加えてきていることも、正しく理解する必要があります。

サタンの声に聞き従った歩みは、間違いなく、滅びの道です。

神様を恐れ、御前にへりくだって、主の御心を尋ね求めていく人に、神様は憐れみをもって、啓示を開き、真理を知らせ、義の道へと導いてくださいます。

聖霊の声に従い、正しく御心を行い、後の世のことについての備えをしていきたいと思います。

 

聖書を読むたびに、天の御国への道の狭さを痛切に感じます。

死後の行き先に中間点は無く、後の日に微笑むのも、そうでないのも、紙一重なのだということが理解できます。

教会では、一日に二度、礼拝があります。

午前は新約から、午後は旧約から学びをしています。

新約時代を生きる私たちに、旧約のことは関係が無いと思っているクリスチャンは多いかも知れません。

レムナントキリスト教会に行く以前の私も、その一人でした。

しかし、旧約を学ぶのは、今の私たちが過去のことを知って正しい歩みをしたり、艱難時代や死後のことに備えるためだということを教えられました。

旧約聖書を読むと、いろいろな王様が出てきますが、大半の王様が失敗をしていることが分かります。

ほとんどの王様は、クリスチャンです。

世の諺にも、「人のふり見て、我がふり直せ」とあるように、多くの失敗例から、学びをして、クリスチャンの最終目的地である天の御国を目指していきたいと思います。

聖書の御言葉 ルカ1

聖書箇所 ルカ1:13-15

 

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内

にあるときから聖霊に満たされ、

 

上記の御言葉を通して、主が私たちに語っていることについて見ていきたいと思います。

 

13節

御使いが、主のことばを告げ知らせるために、ザカリヤに現れました。

神様御自身が私たちの歩みを助け、導いてくださるのですが、時として、このように、天から御使いを遣わすことがあります。

 

参照 創世記28:12 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

神様から遣わされた御使いは、私たちの目に見えるわけではありません。

しかし、私たちのことを危険や罠から守り、助ける働きをします。

 

参照 詩篇 91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

 

ただし、このことは、私たちが、神様の前に正しく歩むことが前提になります。

なぜなら、6節に、ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていたとあるからです。

このことは、私たちの信仰生活についての語りかけを感じます。

常日頃、どのような歩みをすべきかについて、教えられます。

私たちは、頭では、良いと分かっていても、なかなか、そのことに素直に応じられないことが多々あるのではないかと思います。

そのような時に、どんなに祈っても、神様に答えていただけない経験をしたことはないでしょうか。

あるいは、しぶしぶ応答して、やっとの思いで、祈りの答えをいただいたことはないでしょうか。

主の戒めを守り、主の言われることに、従順に応答していくことに御心があり、そのようにしていくときに、天から助けが与えられていくことを言われているのだと思います。

 

14,15節

「主の御前に」という言葉に語りかけを感じます。

主の前とは、どのようなことでしょうか。

 

神様は、私たちの目に見えるお方ではありません。

ゆえに、どうしても、神様の存在を忘れがちになります。

どちらかと言うと、目に見える人の存在のほうが、とても気になるのです。

また、私たちの生まれつきの性質は、人の賞賛に弱かったりもします。

人にどのように思われるか、特別意識はしなくても、人の評価が、多少なりとも気になるものです。

しかし、この箇所を通して、神様からどのように見られているのか、そのことについて教えられます。

主の御前にすぐれた者、分かりやすく言うと、神様の前に、賞賛される者となっていくことの大切さについて言われています。

極端な言い方をすると、人には認められなくても良いのです。

人にも良く思われ、神様からも誉れを受けらけることに越したことはないのですが、聖書を読むと、両方を得ることは、なかなか難しいようです。

なぜかというと、神様の御心に則した歩みは、この世の生き方や考え方とは反することばかりなので、なかなか人には受け入れられづらいものだからです。

 

参照 マルコ 13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

参照 マタイ 6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 

「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ・・・」のところにも語りかけを感じます。

「ぶどう酒、強い酒」というのは、霊的なことを指すと思われます。

ぶどう酒も強い酒も飲まないというのは、悪い霊の影響を受けたりしないことを言われているのではないかと思います。

このことは、クリスチャンが信仰生活を送っていく上で、とても大切なことです。

霊といっても、必ずしも、神様から来る霊とは限らないのです。

特に終末は、嘘、偽り、惑わす力が送り込まれてくるので、注意が必要です。

こういったことから守っていただくために、常に、聖霊を求めていくことにポイントがあります。
残念ながら、今、多くのクリスチャンやキリスト教界が悪い霊の影響によって、本物と偽りの区別がつかない、つまり、霊の見分けが出来ない時代に入っています。

なぜ、そのようになってしまうのでしょうか?

それは、耳に入ってくることや目にすることについて、祈りや御言葉によって、吟味を怠っているからです。

また、神様の御心を行わないことにも要因があるかと思います。

Ⅰペテロに、このような御言葉があります。

「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」

御言葉を知っているだけではダメなのです。

身近な例を挙げると、どんなに機能の良い掃除機があったとしても、それを眺めているだけではお部屋の中はきれいになりませんよね。

そのことと同様で、御言葉は実践して、はじめて、人の心の中を生かすものになります。

御言葉に従うことが、神様に従うことであり、従うことによって、聖霊の働きがどのようなものであるかを体験し、理解していくのです。

また、祈っていくことが、聖霊に触れることに通じます。

このような言い方は、とても、恐縮なのですが、今の時代、時間をかけて祈っているクリスチャンが少ないように思います。

そのような意味合いで、聖霊の働きを目の当たりに見ているクリスチャンもあまりいないように思います。

祈らないと聖霊の働きは皆無と言っても過言ではないので、祈っていく習慣を身につけていきたいと思います。

また、日々、聖書を熱心に調べていくことも大切です。

聖書を読んでいくことによって、神様御自身の性質や私たちへの語りかけを理解し、神様に喜んでいただけることとそうでないことの識別が可能になり、御心にかなった歩みをしていくことに通じていくからです。

 

繰り返しになりますが、今は、聖霊と悪霊の区別がしづらい時代です。

背教が起こり、反キリストが擁立すると、更に見分けるのが難しくなっていくかと思います。

なぜかと言うと、不法の秘密の力はすでに働いていると、聖書に書かれているからです。

あまりにも、御言葉に対して反発し続けてしまうと、霊的に盲目になってしまいます。

そして、恐ろしいことに、神様から退けられる結果を招いてしまいます。(この世においても、後の世においても)

これから、更に、闇の勢力が力を増していく時代において、この世の価値観にとらわれたり、人の評価に一喜一憂していく歩みに、神様の御心はありません。

どこまでも、光を追い求め、熱心に悔い改め、主に堅くつく歩みをしていく人に御心があります。

そのように歩んでいく人は、たとえ、世の中やキリスト教界が、ますます混乱や混濁に満ち、暗闇に包まれた状態に陥ったとしても、絶えず真理を見出し、主の守りや助けの中で、勝利を得ていかれると思います。

ここに書かれているバプテスマのヨハネのように、神様の前に、尊ばれる歩みをして、主からの誉れを受けていきたいと思います。

クリスチャンになってから、しばらくの間、真の意味合いで主に仕えていくということについて、ずいぶん誤解していました。

ろくに祈りもせず、聖書も読まなかったので、いくら礼拝や祈祷会に出席していても、本来の召しや信仰の目的について、なかなか、見出すことが出来ませんでした。

そのような状態が続いたため、しばらくの間、神様と教会から離れてしまいました。

このことは、決して良いことだとは思ってはいませんでした。

しかし、そのような私の心の状態を神様は、よくよくご存知で、あるとき、神様の憐れみと恵みによって、神様と信仰、そして、教会生活に立ち返る機会が与えられました。

再び信仰生活をスタートさせ、「もう、神様から二度と離れたくない」と、そのような思いで心の中はいっぱいでした。

上記御言葉の通り、私は御言葉を行わなかったため、つまずき、神様から離れてしまったのだということを、後になって、理解しました。

神様と信仰生活に立ち返ってすぐに仕えていこうという決意をしたわけではありませんが、心の奥底で、いつか、神様に捧げていかれたらという思いがあり、そのことに神様は憐れみをもって助けや導きを与えてくださり、わずかながらでも、お仕えすることができるようにしてくださいました。

日々の信仰生活において、時間をかけて祈っていくことや御言葉を読んでいくことをはじめ、神様の御心を行っていくことの大切さについて、今も学ばせていただいています。

また、何をするにしても、主の前に忠実に行っていくことの大切さについても、最近教えられています。

これからも主にお仕えし、ほんのわずかであっても、御心にかなった歩みをしていかれたらと思います。

 

聖書の御言葉 マルコ16

聖書箇所 マルコ16
16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
上記御言葉は、復活されたイエス様が11人の弟子たちのところに現れて言われたことです。
このことは、今日の私たちクリスチャンへの語りかけでもあります。
この御言葉を通して、主は、救いの条件のことを言われています。
この箇所は、そのまま文字通り読むことが出来ます。
信じてバプテスマを受ける人は救われ、信じない人は罪に定められるとあります。
罪とは、「死」と関係があります。
「死」の反対は、「命」です。
「命」が永遠の命であるなら、天の御国に通じるかと思います。
そのように考えていくと、「死」の行き着くところは、その逆の場所であることが理解できます。
信じるのか、そうでないのかによって、死後の行き先が大きく変わってくることを言われているの
です。
ここで、バプテスマについて少し見ていきたいと思います。
私たちが未信者だった頃、万物を造られた神様を知り、御子イエス・キリストが私たちの救い主
であることを信じて、心に受け入れ、その時からクリスチャンとしての歩みがスタートします。
その際、水のバプテスマである洗礼を受けるわけです。
過去、神様を知らない時代と決別し、これからは、キリストと共に生きていくということを公に
すること、つまり、クリスチャンの歩みを始めることを表明する証として受けるものなのです。
水のバプテスマ、このことは、クリスチャンとしての歩みのスタートラインに立つために、必須な
ものとも言えます。
次に、クリスチャンの最終目的について考えてみたいと思います。
救いのチャンスというのは、神様の愛と恵みによって、すべての人に無条件に与えられているもの
です。
イエス様は、すべての人の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。
私たちを罪(死)から解放するため、すなわち、死後、地獄の刑罰から逃れさせるためでした。
このことから、クリスチャンのゴールは、天の御国であることが理解できるかと思います。
多くのクリスチャンは、信じて、洗礼を受けて、救われ、そして、天国行きが確定だと、そのよう
におっしゃるかと思います。
確かに、キリストを信じて、心に受け入れて、バプテスマを受ける、そのことによって救われま
す。
しかし、残念ながら、水のバプテスマの他に、イエス様の言われたバプテスマを受けていかなけれ
ば、天の御国に入ることは出来ません。
イエス様がおっしゃっているバプテスマとは、どういうものなのでしょうか。
マタイの福音書で、バプテスマのヨハネがこのように言われています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来
られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値う
ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
ここに、聖霊と火とのバプテスマと書かれています。
つまり、イエス様は、聖霊と火によって、私たちにバプテスマを授けると言われているのです。
なぜ、そのことが必要なのかというと、続いて、ヨハネは、このように言われています。
「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消
えない火で焼き尽くされます。」
このことは、いわゆる裁きの時ことについて言われています。
私たちクリスチャンは善であれ、悪であれ、死後、裁かれます。
手に箕を持っておられるのは、キリストのことを指します。
脱穀場とは、信徒を奮い分ける場所、いわば、裁きの御座のことを指すと思われます。
麦とは、御国を受け継ぐクリスチャンのことを指し、殻とはその反対で、御国を受け継がないクリ
スチャンのことを言われています。
消えない火とは、火の池、つまり、地獄のことを指すと思われます。
このことは、恐ろしいことです。
つまり、クリスチャンと言っても、御国を受け継ぐクリスチャンとそうでないクリスチャンがいる
ことが理解できるかと思います。
よって、私たちは、地獄の刑罰から救われる必要があります。
16節に書かれている救われるとは、神様の怒りの裁きから免れるという意味があるかと思います。
そのために、イエス様が言われた聖霊のバプテスマ、火のバプテスマを受けていきたいと思いま
す。
聖霊のバプテスマとは、御霊によって歩むこと、具体的には、祈り、絶えず、聖霊に触れていくこ
とです。
御霊の油注ぎという言葉があるように、聖霊の力によって、生きていくことです。
そうしていくことで、内側が、だんだんとキリストに似た者に変えられていくようになります。
ちなみに、キリストとは、「油注がれた者」という意味合いです。
火のバプテスマとは、十字架を背負う歩みのことを言います。
福音のために、自分自身を神様に捧げ、どこまでも、キリストに従って歩んでいくことです。
また、そのために、主から霊的な訓練を受けていくことです。
このことは、弟子の歩みに、そのまま通じていくものでもあります。
分かりやすく言うと、キリストが歩まれたように、歩んでいくことです。
一見聞くと、多くのものを失うような気がするかと思います。
でも、このことは、祝福や恵みを大いにもたらすものであり、結果として、多くの義の実を結ぶこ
とにつながり、なおかつ、神様に賞賛される歩みとも言えます。
話は前後しましたが、最後に、信じることについてみていきたいと思います。
ここに、書かれている信じるとは、何を信じるのでしょうか?
その前の15節には、福音を宣べ伝えなさいとイエス様が言われています。
そのことから、御言葉、すなわち、聖書に書かれている神様の言葉を信じることを言われているの
だと思います。
神様の言葉を信じることが、イエス様を信じることや受け入れることに通じていきます。
また、御言葉を信じるためには、聖書を読み込んでいくことがポイントです。
日々、聖書の御言葉に触れていくことによって、神様がどのようなお方であるのか、そして、私た
ちへの語りかけについて理解したり、時代を正しく見分けていくことや御心を行っていくことにも
通じていきます。
ちなみに、悪霊も神様のことを信じておののいているわけですが、そのような信じ方では、ダメだ
ということです。
なぜかというと、悪霊は、真理の中に偽りを混ぜて御言葉を曲げ、惑わす力を送り込み、
嘘・偽り・空想話を信じさせたり、神様の御心から外させようと仕向けてくるからです。
Ex:罪を犯し続けていても、悔い改めなくても、一度信じれば天国へ行けるとか、地獄は無いとか、
クリスチャンは艱難時代は通らない等の教えです。
このように聖書に書かれていないことを鵜呑みにしてしまうことは、永遠の命を失う危険性があり
ます。
そのような意味合いで、聖書の御言葉を正しく理解していくことは、とても大切なことです。
主の前にどこまでも謙遜になって、真理を追究して聞いていく人に、神様は憐れみをもって、正し
いことを教えて下さり、主のまっすぐな道を歩ませて下さいます。
聖書の言葉は、すべて成就します。
また、神様の言葉は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くたましいと霊、関節と骨髄の分
かれ目さえも刺し通すと言われていますので、すべての御言葉に恐れをもって、信じていきたいと
思います。
御霊によって歩み、主の訓練を行い、御言葉に堅くとどまり、約束の地である天の御国を目指して
いきたいと思います。
※参照 ヨハネ3:18,36 使徒16:31
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すで
にさばかれている。
3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがな
く、神の怒りがその上にとどまる。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。証
つい、数年前まで、クリスチャンは無条件に天の御国を受け継ぐものだとばかり思っていました。
それは、クリスチャンは艱難の前に挙げられると思っていたからです。
また、ある牧師が「クリスチャンは裁かれることはない、裁かれるのは、神様を信じない未信者で
す」と語っていたメッセージを信じていました。
裁きは未信者だけだと、そのような視点で聖書を読んでいました。
でも、ある時をさかいに、そうではないことを理解し、その時から聖書の読み方が一変しました。
それと同時に、艱難を通ること、未信者もクリスチャンも裁かれることを理解しました。
しかも、御言葉に「神の家から裁きが始まる」と書いてあるので、真剣に死後のことについて考え
るようになりました。
まだまだ盲目な者ですが、祈りや御言葉やメッセージを通して、神様が語っていることについて学
び、光を追い、御言葉に堅くとどまっていきたいと思っています。

聖書の御言葉マルコ15

聖書箇所 マルコ15
15:6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。
15:7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはい
っていた。
15:8 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
15:9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言
った。
15:10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
15:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
15:12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいる
あの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
15:13 すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。
15:14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、
彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
15:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打
って後、十字架につけるようにと引き渡した。
この箇所では、イエス様が、祭司長たちによって、協議会に引き渡され、訴えられているのです
が、ピラトにはイエス様が何の罪も犯されていないことが分かっていたので、バラバではなく、イ
エス様を釈放しようと、会衆に呼びかけました。
しかし、祭司長たちが群集を扇動したため、結果として、イエス様が十字架につけられてしまうこ
とになりました。
神様を信じるクリスチャンなら、イエス・キリストが、罪の無い正しいお方であることは、誰しも
がご存知だと思います。
14節でピラトが言っているように、イエス様は何も悪いことはしていないのです。
それにもかかわらず、なぜ、イエス様は十字架につけられることになったのでしょうか。
まず、はじめに、イエス様を十字架につけたのは誰なのか、そのことに触れながら、この箇所につ
いて見ていきたいと思います。
過去、私は、イエス様を十字架につけたのは、イエス様のことを全く知らない異邦人だとばかり思
っていました。
なぜ、そのように思っていたのかと言うと、聖書を正しく理解していなかったこと、そして、地獄
は未信者が行くところだと思っていたからです。
10節にねたみからイエスを引き渡したと書かれているところについても、イエス様を知らない人た
ちは、クリスチャンに比べてねたみやすいからと人間的な視点で聖書を読み、勝手な解釈をしてい
ました。
今にして思うと、とても恥ずかしいことです。
ここに登場する人物の中で、異邦人はピラトだけです。
祭司長、長老、律法学者をはじめ、群集、バラバは皆クリスチャンです。
人殺しのバラバがクリスチャン?そんな馬鹿な?と、おっしゃるかも知れません。
ちなみに、バラバの意味を見てみると、「恥の息子、父(主人)の息子」とあります。
この父とは、天の父ではなく、サタンのことを指すものと思われます。
もし、天の父であれば、恥の息子とは呼ばれないからです。
また、人殺しという言葉で思いつくことで、ヨハネの福音書にこのように書かれています。
これは、イエス様が言われたことです。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂
げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちに
は真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜ
なら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」
このことは、イエス様がパリサイ人や律法学者に対して語られたことです。
つまり、この箇所から、父と言っても、2種類の父がいて、クリスチャンはそのどちらかの子供にな
り、仕えることが理解できるかと思います。
クリスチャンと言っても皆が皆、天の父を父としているわけではないのです。
分かりやすく言うと、同じクリスチャンでありながら、残念なことに、サタンを父としている人た
ちがいるということです。
まさに、祭司長や長老、律法学者たちは、そのような代表とも言える人たちでした。
最後まで、イエス様のことを信じず、聖書の正しい理解に至らず、御心を行わないゆえに、イエス
様につまずき、結果として、彼らは、群集を扇動して、イエス様を十字架につけてしまいました。
神様を信じるクリスチャンが、イエス様を救い主として受け入れないばかりか、拒み、何と、殺し
てしまったのです。
人殺しのバラバではなく、何一つ罪を犯されなかったイエス様が悪魔を父としているクリスチャン
に殺されてしまいました。
旧約時代の終わり、義と不義とが逆転し、神への冒涜が極みに達し、このような最悪な結末を招い
てしまったのです。
このことは、新約の時代の私たちクリスチャンやキリスト教界への語りかけを感じます。
今は、新約の終わりの時代です。
使徒の働きにも書かれているように、曲がった時代でもあります。
建前では、神様にお仕えしているようであって、しかし、現実は、クリスチャンやキリスト教界の
中に多くの嘘や偽りや惑わしが入り込んできています。
たとえば、癒しの集会と称し、しかし、現実は悪魔を呼び、聖霊ではなく、悪霊を人に下すという
恐ろしいことが行われたりしています。
また、クリスチャンは、艱難の前に天に挙げられるから、何の備えもする必要は無い等と、安心感
を人々に与え、結果として、永遠の命が危なくなくなるような聖書的根拠の無い偽りの教理が出回
っています。
歩みを正すよう、御言葉を基に、こういったことを少しでも指摘しようものなら、大半のクリスチ
ャンから白い目で見られたり、原理主義者呼ばわりされたり、カルト扱いをされたりしてしまうの
が、現実です。
このことは、前もって聖書で預言されているのですが、これから、背教が起こり、反
キリストが擁立して艱難時代に入っていくと、更に顕著になっていくかと思われます。
なぜかというと、世の終わりのことは福音書のあらゆる箇所で、預言されているからです。
イエス様御自身が人に惑わされないように気をつけないとか、いまだかつてないような今後もな
いようなひどい苦難の時がくるとか、最後まで耐え忍ぶ者は救われるとか言われているからです。
つまり、艱難時代には、旧約の時代の終わりの時と同様、正しく主につく人が迫害されることが予
め、理解できるかと思います。
その時になって、ここに書かれている祭司長たちや群集のように、正しく神様につく人たちを迫害
する側には、決してなってはいけません。
このような時に、むしろ、主の御名のゆえに、迫害されることが、まともな歩みだと思います。
御言葉に堅くついた歩みをしていくなら、イエス様と同じように、訴えられたり、捕らえられた
り、尋問されたりと理不尽な目に遭うかも知れません。
場合によっては、肉体の命も危ないかも知れません。
しかし、そうではあっても、最後まで、主に堅くついていく歩みに御心があります。
福音のために、命を捨てる者は、かえってそれを見出すとも言われています。
また、艱難に備えていくために、最後まで主に堅くついていくために、今から弟子の歩みをしてい
くことにポイントがあります。
イエス様を裏切った弟子(イスカリオテのユダ)はいましたが、イエス様のことを十字架につけた弟子
はいませんでした。
主の弟子としての訓練を行っていくことは大切です。
備えていかなければ、洪水が押し寄せてきた時に、あっという間に倒されてしまうからです。
下記、御言葉は、イエス様がおっしゃったことです。
参考まで、書いておきます。
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い
人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の
上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚
かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれ
はひどい倒れ方でした。 マタイによる福音書7:24-27
主に訓練されていくことによって、信仰の土台が築き上げられ、どんなに大きな波や風が来ても、
対応していかれるように変えられていきます。
また、キリスト教界で言われている嘘や偽りを見抜いたり、惑わしからも守られていくようになり
ます。
こうしたことは、その人自身にとって益になるばかりではなく、周囲の人を助ける働きにも通じて
いくかと思います。
話しは、はじめに戻りますが、旧約時代の終わりの群集は、明らかに惑わされていました。
真理とそうでないことを区別することが出来ませんでした。
新約時代の終わりにも、同じことが再現するかと思います。
なぜかというと、旧約時代に起こった出来事は、新約時代を生きている私たちへの教訓だからで
す。
弟子としての歩みをしていかないと、旧約時代の群衆同様、惑わされ、その結果として、最も大切
な永遠の命を失ってしまう危険性があるかと思います。
すぐに崩されてしまう砂の上ではなく、どんな風や嵐にも耐えられる岩の上に家を立てていき、最
後まで主に堅くとどまっていく歩みをしていきたいと思います。

レムナントキリスト教会に行く前は、群集の歩みにとどまっていました。
しかし、エレミヤ牧師のメッセージを通して、群集の歩みには御心が無いことを理解しました。
教会の奉仕を行ったり(特に御言葉に関わること、メッセージの作成や預言や証等)、私たちが最終的
に目指す天の御国に入るためには、このことが必須であるということを御言葉からも学ばせていた
だいています。
そして、弟子の歩みを始めてから、以前見えなかったものが多少見えるようになったり、御言葉を
少しずつ、理解できるようになりました。
聖書は大半が譬えで書かれていますが、イエス様は、弟子たちには、譬えの解き明かしをしてくだ
さいました。
このことは、弟子として歩む人の特権の一つとも言えると思いますし、譬えの意味合いを通して、
神様の御心や御言葉の奥義を知ることは御心を正しく行っていく上で、とても大切なことだと思い
ました。
終末や艱難時代のためにも、弟子の歩みを強め、最後まで主に堅くついていかれたらなぁと思いま
す。

聖書の御言葉マルコ14

聖書箇所
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとり
の女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イ
エスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたの
か。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、そ
の女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。
わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいとき
は、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょに
いるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油
を塗ってくれたのです。
ここでは、一人の女性がイエス様に対して行ったことについて書かれています。
主が、この箇所を通して、私たちに語っていることを見ていきたいと思います。
女性がイエス様にしたこと、このことは、周囲の人たちから見ると、非常識なことだと判断されま
した。
3節に、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼと書かれていて、売ったら、食べることや物質的
に困っている人たちの助けが出来るのにと、周囲にいた人たちは、彼女に向かって憤りを発しまし
た。
確かに、このことは、人間的に考えて、おかしくも何ともない、むしろ、正当なことのように思わ
れます。
しかし、6節でのイエス様の対応を見る限りでは、この女性が行ったことは、むしろ、賞賛に値する
ものであることが理解出来ます。
4節の、憤慨に対して、全く、正反対の反応です。
「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」と、イエス様は、女性を非難する人々に言われま
した。
このところに、語りかけを感じます。
わたしのため、つまり、イエス様のためにすること、このことは、とても大切なことだと言われて
いるのではないでしょうか。
私たちは時折、信仰のことを勘違いしてしまうことがあるのではないでしょうか。
頭では、きちんと理解して、口では、神様に仕えていると言っていても、いつの間に
か、人のためや自分のためにと、すりかわってしまっていることがあるように思います。
神様を基準に行っていると言いながら、心の思いや、人間的な考えに固執して、歩んでいることが
往々にしてあるのではないかと思います。
自分では意識をしなくても、いつの間にか、人間的なとらえで、神様の働きを進めていることはな
いでしょうか。
そして、そのようなことは、神様の働きを妨げたりとどめてしまったりするようにも思います。
人間的な考え、このことは、一見良いことのように思えます。
しかし、実際に聖書では、人の言い伝えは、神のことばを無にするとさえ言われています。
このことは、イエス様御自身がおっしゃっていることです。
つぼを割って、イエス様の頭に油を注いだ女性、彼女を通して学ばされることがあります。
この女性は、イエス様が望んでおられることが何であるかということをご存知でした。
どうしたら、イエス様のお役に立てるか、喜んでいただけるかを、常に追求されていたのだと思い
ます。
そして、実際に、この時にも、イエス様が求めておられことを女性は知っていました。
しかも、それを、いつ、行うべきなのか、時期についても、きちんと把握していました。
なぜ、女性がそのようにすることができたのでしょうか。
きっと、常に、イエス様のことを思い、ひたすら、イエス様にくっついていたからなのだと思いま
す。
どこまでも、イエス様を愛し、イエス様がどのようにしたら喜んで下さるか、いつも、そのことに
着眼していたのだと思います。
そして、このことは、主の目から見て、とても尊いことでした。
また、女性が主から誉められた大きな理由は、何よりも、主の御心を優先し、そのために、どこま
でもエネルギーを惜しまなかったことです。
香油とは、芳しい香りの油のことです。
ちなみに、香とは、たとえの意味合いとして、祈りのことに通じます。
油は、御霊の油、つまり、聖霊のことを指します。
芳しい香りとは、聖霊の油注がれた祈りに通じるかと思います。
つまり、主の御心に叶う祈りを日ごろから、捧げていたということではないでしょうか。
主に喜ばれることが、何であるかを逐一、尋ね求めていたのではないかと思います。
このことは、決して、人の目に見えるわけでもなく、理解されるものでもありません。
祈りや信仰というのは、どこまでも、神様とその人との、一対一の関係だからです。
8節にもあるように、自分にできることをしたと主が言われている通り、主は、その人のす
べてのことをご存知で、それぞれの人を、ご自身のご計画や御心のために、用いられます。
つまり、第三者が、その人の霊的なことや、信仰のことに、介入する余地はないということです。
また、人の思いや考えを基準にしてしまうと、どこかでズレが生じたり、行き詰まったりします。
箴言の御言葉に、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」
と、あります。
どんなに人に認められようと、良く思われようと、神様の御心ではないことは、罪だということで
す。
この女性のように、神様に喜ばれることを、直接神様に尋ね、行っていくことは、とても大切なこ
とだと思います。
このことは、神様に従っていく歩みに直接通じていくのではないかと思います。
日々、祈り、御言葉に触れて、主の御心を正しく理解して、神様に喜ばれることを行い、人からで
はなく、主からの誉れを受けるような歩みをしていきたいと思います。

この箇所を通して、聖書が言われていることと、人間の思いや考えのギャップについて教えられま
した。
人間の固定観念や常識に縛られている時点で、神様の働きをとどめてしまったり、栄光を見ること
ができなくなってしまうのではないかという危険性も感じました。
また、自分自身が、目に見えるものに弱く、なかなかストレートに神様を見上げていない弱さにつ
いても気づかされました。
もし、自分がシモンの家にいたら、4節に書かれているように、人間の常識によって、人を判断して
いたに違いないと思います。
祈り、御言葉、メッセージを通して、神様の基準について学び、聖霊の助けによって霊の目で判断
し、御心を行っていかれるようにしたいと思います。

聖書の御言葉マルコ13

聖書箇所
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、ま
た、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされま
す。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
ここの9節からの箇所については、3,4節で弟子たちが質問したことについて、イエスが弟子たち
に対して語られています。
主の弟子として歩む、このことを自らの意志で選択し、主に従ったあゆみをしていくこ
とは、とても尊いことだと言えますし、祝福や恵みも大いなるものであると思います。
特に、霊的なことに関しては、群集の歩みでは味わうことの出来ないこと、たとえば、御言葉の
奥義に関する理解が深められたり、祈りを通して、主と密接に交わる機会が増えてくるので、互
いの信頼関係も築かれていきます。
このことは、たしかに、人知を超越した計り知れないものです。
弟子の特権ともいえると思います。
しかし、人間的な視点に立つと、必ずしも喜ばしいことばかりではありません。
むしろ、主に従うがゆえに、苦難もつきまとうことが多いと思います。
この章は、艱難時代についての記述です。
そして、9節には、とらえられることについて言われています。
このことは、人間的に考えると、辛いでしょうし、悲しいことです。
はっきり言って、「こんな状況になるのは嫌だ」と誰しもが思うと思います。
私自身も積極的には、このようなことは、望むことではありません。
でも、主がこのように言われているのだから、こういったことも、想定しておく必要があるかと
思います。
また、このことについては、理由も書かれていることを見落としてはなりません。
むしろ、その理由が、大切なので、見ていきたいと思います。
彼らに対してあかしをするためであると、イエス様は言われています。
この、彼らというのは、総督や王たちのことです。
会堂とは教会を指すので、具体的には、教会の偉い人、牧師や神父のことを言われているのだと
思います。
いずれもクリスチャンです。
今のキリスト教界の常識から考えると、クリスチャンがクリスチャンにあかし(弁明)をするとい
うのは理解しがたいことかも知れません。
なぜかというと、大半のクリスチャンは、聖書について正しい理解を持っていないので、時代が
見分けられず、はたまた艱難など通らないと思っているからです。
むしろ、聖書について、きちんと語るクリスチャンを異端呼ばわりしたり、カルト扱いをしたり
して、なれの果ては、訴えて、最悪死に至らせてしまうのです。
そのようなクリスチャンが真実を知るためのきっかけとして、正しく歩むクリスチャンがとら
えられ、その時こそ、イエス様のことを証する機会になるとそのように言われているのです。
いつの日かそういう日がくるかも知れない、それでも私に従ってくるのか、そのことを、弟子と
して歩む一人一人に主は問われているようにも思えます。
最悪、主のために、命を捨てる覚悟はあるのか?すべての人に憎まれても、主を選ぶのか?その
ようなことだと思います。
昨今、永遠の命が、ずいぶん軽視されているように思えます。
クリスチャンの裁きについて語られているメッセージが激減しているようにも思います。
神は愛だから裁かれないとか、一度信じれば、天国行きは確定等、聖書を超えた教理によって、
クリスチャンに根拠も無い安心感をどこまで与えて続けています。
一口に言うと、狭い門が、知らない間に広い道にすりかえられています。
このことは、クリスチャンを滅びに至らせるための、敵の仕業のなにものでもありません。
そして残念ながら、こういったことを指摘すべき立場である弟子たちは、これから迫害されてい
くことが聖書には明確に記されています。
でも、もし、主の御名のゆえに迫害されるなら、その人に神様の栄光があらわされていうことに
もなるので、決して落胆したり卑下したりする必要はありません。
聖書的には、むしろ、喜ばしいことなのです。
そのような人は、主の証人として、ますます用いられていきます。
まさに10節に書かれているように、こういった時にこそ、福音を宣べ伝えるチャンスだとも言
えます。
一見、人間的には、不幸に見えるようであっても、しかし、神様は、そのようなことを通して、
すべてを益と変えてくださいます。
すべてのことに、神様のご計画があるので、このことを今からきちんと理解し、たとえ周囲の
人に迫害されても、むしろそのことに甘んじて、主に堅くつく歩みをしていきたいと思います。

弟子の歩みをはじめてから、一年半が経とうとしています。
弟子として歩むこと、このことを決意すること自体は、それほど難しいことではありませんでし
た。
でも、継続していくことが大切であり、そのことは、困難であるように思います。
なぜかというと、敵は常に滅びに向かう広い道を提供してきますし、広い道を歩んでいる信徒を
横目に見ながらの歩みなので、始めてみると思った以上にとても険しく感じることが多々ありま
す。
また、本日のメッセージの箇所でも言われているように、いずれ、迫害されることが預言されて
います。
迫害されたり、とらえられたりと、自分にとって、不当なことがふりかかってきた時が、大きな
勝負どころと言えるのかもしれません。
そのように考えていくと、日々の弟子としての歩み方が問われてくるように思います。
すでに戦いは始まっていますし、主の勇士としての歩みを目指すなら、常に戦いの連続であるこ
とは、ありとあらゆる箇所の御言葉によって、証明されています。
最近、御霊に感じることがありました。
主は、喜んで、捧げる人を愛してくださるという御言葉があり、聖霊の喜びに満ち溢れて戦いに
出ていくことがとても大切なのではないだろうかと思いました。
同じ戦うのであれば、強いられてでもなく、嫌々でもなく、すべて主に喜んで捧げていかれたら
なぁと思います。
そうしていくときに、主の御業や栄光を見ていくことにつながるのではないだろうかと思いまし
た。
聖霊の力によって、日々新たにされ、主を盾として、最後まで勇士としての戦いを全うできたら
と思います。
主に土台を築いていただくことによって、艱難時代も、思い煩うことなく、御霊の導きによって
乗り越えていかれるのだと思います。

聖書の御言葉マルコ13

聖書箇所
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、ま
た、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされま
す。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
ここの9節からの箇所については、3,4節で弟子たちが質問したことについて、イエスが弟子たち
に対して語られています。
主の弟子として歩む、このことを自らの意志で選択し、主に従ったあゆみをしていくこ
とは、とても尊いことだと言えますし、祝福や恵みも大いなるものであると思います。
特に、霊的なことに関しては、群集の歩みでは味わうことの出来ないこと、たとえば、御言葉の
奥義に関する理解が深められたり、祈りを通して、主と密接に交わる機会が増えてくるので、互
いの信頼関係も築かれていきます。
このことは、たしかに、人知を超越した計り知れないものです。
弟子の特権ともいえると思います。
しかし、人間的な視点に立つと、必ずしも喜ばしいことばかりではありません。
むしろ、主に従うがゆえに、苦難もつきまとうことが多いと思います。
この章は、艱難時代についての記述です。
そして、9節には、とらえられることについて言われています。
このことは、人間的に考えると、辛いでしょうし、悲しいことです。
はっきり言って、「こんな状況になるのは嫌だ」と誰しもが思うと思います。
私自身も積極的には、このようなことは、望むことではありません。
でも、主がこのように言われているのだから、こういったことも、想定しておく必要があるかと
思います。
また、このことについては、理由も書かれていることを見落としてはなりません。
むしろ、その理由が、大切なので、見ていきたいと思います。
彼らに対してあかしをするためであると、イエス様は言われています。
この、彼らというのは、総督や王たちのことです。
会堂とは教会を指すので、具体的には、教会の偉い人、牧師や神父のことを言われているのだと
思います。
いずれもクリスチャンです。
今のキリスト教界の常識から考えると、クリスチャンがクリスチャンにあかし(弁明)をするとい
うのは理解しがたいことかも知れません。
なぜかというと、大半のクリスチャンは、聖書について正しい理解を持っていないので、時代が
見分けられず、はたまた艱難など通らないと思っているからです。
むしろ、聖書について、きちんと語るクリスチャンを異端呼ばわりしたり、カルト扱いをしたり
して、なれの果ては、訴えて、最悪死に至らせてしまうのです。
そのようなクリスチャンが真実を知るためのきっかけとして、正しく歩むクリスチャンがとら
えられ、その時こそ、イエス様のことを証する機会になるとそのように言われているのです。
いつの日かそういう日がくるかも知れない、それでも私に従ってくるのか、そのことを、弟子と
して歩む一人一人に主は問われているようにも思えます。
最悪、主のために、命を捨てる覚悟はあるのか?すべての人に憎まれても、主を選ぶのか?その
ようなことだと思います。
昨今、永遠の命が、ずいぶん軽視されているように思えます。
クリスチャンの裁きについて語られているメッセージが激減しているようにも思います。
神は愛だから裁かれないとか、一度信じれば、天国行きは確定等、聖書を超えた教理によって、
クリスチャンに根拠も無い安心感をどこまで与えて続けています。
一口に言うと、狭い門が、知らない間に広い道にすりかえられています。
このことは、クリスチャンを滅びに至らせるための、敵の仕業のなにものでもありません。
そして残念ながら、こういったことを指摘すべき立場である弟子たちは、これから迫害されてい
くことが聖書には明確に記されています。
でも、もし、主の御名のゆえに迫害されるなら、その人に神様の栄光があらわされていうことに
もなるので、決して落胆したり卑下したりする必要はありません。
聖書的には、むしろ、喜ばしいことなのです。
そのような人は、主の証人として、ますます用いられていきます。
まさに10節に書かれているように、こういった時にこそ、福音を宣べ伝えるチャンスだとも言
えます。
一見、人間的には、不幸に見えるようであっても、しかし、神様は、そのようなことを通して、
すべてを益と変えてくださいます。
すべてのことに、神様のご計画があるので、このことを今からきちんと理解し、たとえ周囲の
人に迫害されても、むしろそのことに甘んじて、主に堅くつく歩みをしていきたいと思います。

弟子の歩みをはじめてから、一年半が経とうとしています。
弟子として歩むこと、このことを決意すること自体は、それほど難しいことではありませんでし
た。
でも、継続していくことが大切であり、そのことは、困難であるように思います。
なぜかというと、敵は常に滅びに向かう広い道を提供してきますし、広い道を歩んでいる信徒を
横目に見ながらの歩みなので、始めてみると思った以上にとても険しく感じることが多々ありま
す。
また、本日のメッセージの箇所でも言われているように、いずれ、迫害されることが預言されて
います。
迫害されたり、とらえられたりと、自分にとって、不当なことがふりかかってきた時が、大きな
勝負どころと言えるのかもしれません。
そのように考えていくと、日々の弟子としての歩み方が問われてくるように思います。
すでに戦いは始まっていますし、主の勇士としての歩みを目指すなら、常に戦いの連続であるこ
とは、ありとあらゆる箇所の御言葉によって、証明されています。
最近、御霊に感じることがありました。
主は、喜んで、捧げる人を愛してくださるという御言葉があり、聖霊の喜びに満ち溢れて戦いに
出ていくことがとても大切なのではないだろうかと思いました。
同じ戦うのであれば、強いられてでもなく、嫌々でもなく、すべて主に喜んで捧げていかれたら
なぁと思います。
そうしていくときに、主の御業や栄光を見ていくことにつながるのではないだろうかと思いまし
た。
聖霊の力によって、日々新たにされ、主を盾として、最後まで勇士としての戦いを全うできたら
と思います。
主に土台を築いていただくことによって、艱難時代も、思い煩うことなく、御霊の導きによって
乗り越えていかれるのだと思います。

聖書の御言葉マルコ12

聖書箇所
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当
たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げ
ます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費
の全部を投げ入れたからです。」
上記御言葉の「やもめ」という言葉を通して、主が語っている信仰の歩みについてみてみたいと思
います。
クリスチャンの歩みに関して、やもめの歩みに御心があります。
やもめの意味は、辞書をひくと、「夫のいない女。また、夫を失った女。未亡人。」と、書かれて
います。
また、「貧しい」という言葉にも語りかけがあります。
このことは、単に、所持金が少ないことを言っているだけではありません。
私たちの内面的なことについても言われています。
聖書の御言葉には、「貧しい」という言葉が度々出てきます。
先ほど申し上げたように、金銭のことを指す場合もありますが、聖書で言われている大半の意味合
いは、謙遜な心とかへりくだった心のことを言われています。
聖書の中で、キリストは花婿で、クリスチャンは花嫁にたとえられています。
つまり、聖書で言われている「やもめ歩み」というのは、霊の夫であるキリストを待つ人、たと
え、人間的には結婚をしている場合でも、地上にあっては、寄留者であり旅人であることを念頭に
置いて信仰の歩みをしている人です。
口先だけではなく、真の意味合いで、キリストだけを主として歩む人のことを「やもめの歩み」と
言います。
そのようなことを踏まえて、主が語っていることに耳を傾けていきたいと思います。
クリスチャンといっても、歩み方は人それぞれであって、どのような歩みをしたかによって、結果
も異なります。
この箇所を通して、神様が私たちクリスチャンに求めておられる信仰の姿勢について学んでいきた
いと思います。
ここでは、一人の貧しいやもめが献金箱にお金を入れている様子について書かれています。
さっきも言いましたように、「やもめ」という言葉に1つのキーワードがあります。
私たちがクリスチャンとして、歩みをしていく時に、知っておかなければならないことがありま
す。
クリスチャンというのは、キリストの奴隷です。
キリストから贖われ、キリストのものとなったわけです。
神様を信じる前は、空中の権威者であるサタンを父としていたので、この世のものでした。
しかし、キリストを信じて心に受け入れて、クリスチャンとしての歩みをスタートさせることによ
って、この世のものではなくりました。
ここで少し考えていただきたいのです。
建前では、確かにそうなのです。
また、多くのクリスチャンは、頭では、このことを理解しているのです。
クリスチャンになると、大半の人は、礼拝に行ったり、奉仕をしたり、時にはトラクトを配った
り、路傍で伝道をしたりするのかも知れません。
ところが、聖書ではこのような御言葉があります。
以下は、ピリピ人の手紙からの引用です。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本と
して歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの
人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの思いは地上のことだけです。
19節の「彼らの思いは地上のことだけです」の言葉に着目していただきたいと思います。
この言葉は、神様を知らない未信者の人たちに語られているのではありません。
17節の「兄弟たち」とあるように、パウロは、同胞であるクリスチャンに対して言われているので
す。
18節の「多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる」と言うのは、クリスチャンと称
しながらも、心の思いが天にあるのではなく、地上のことにとらわれている人が多いということで
す。
私たちは、神様とも、この世とも、うまくやっていきたい、誰しもがそのように思うかと思いま
す。

恥ずかしい話ですが、かつての私もそのように考えていました。
この世のことも保障されたい、特に、人間関係に関しては、誰とでもうまくやっていけたらいいと
か、経済も乏しいよりかは豊かなほうがいい、そして、神様にも仕えたい等と、自分に都合の良い
ことばかり考えていました。
でも、聖書を読むと、「二人の主人に兼ね仕えることは出来ない」とか、「神にも仕え、富にも仕
えることはできません」とか、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも
世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」と、はっきりと書かれてい
ることに気づかせていただきました。
こういったことから、この世のことと、神様のことを、両立させるのは、不可能であるということ
を理解しました。
以前の私もそうであったように、このことを正しく認識しているクリスチャンは、非常に少ないの
ではないでしょうか。
また、この世のこと=肉の思い、神様のこと=御霊の思いであって、この二つというのは、常に対
立しています。
残念なことに、何の接点も無いのです。
信仰生活を送っていく上で、このことは正しく御理解いきたいと思います。
なぜかというと、私たちは、どちらか一方にしか仕えることは出来ませんし、選んだ結果によ
って、死後の行き先が変わってくるからです。
44節の「やもめは全部投げ入れました」のところからも、語りかけを感じます。
このやもめから、本来の信仰のあるべき姿をとらえることができるかと思います。
はじめに話しましたように、真のやもめというのは、この地上において夫を持たない人、天の夫で
あるキリストを待つ人です。
このやもめは、地上に目を向けた歩みではなく、主に望みを置いた歩みをしていたので、すべてを
捧げることができたのではないかと思います。
このことは、単に金銭的なことのみを言われているのではなく、霊的なことも言われているのだと
思います。
私たちが献身の道を歩む時の一番のポイントは、神様の御声に聞き従うかどうかです。
つまり、心の思いや考えをすべてキリストに与えていくかどうかです。
このことは、瞬時においても、問われていくことです。
御言葉に「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と、あるように、主は、私
たちの心の居所について、常に見ておられます。
そして、私たちが内面的な部分を、主に捧げていくときに、神様は、私たちを主の尊い器として用
いてくださいます。
私たちが、神様にお仕えしていく姿勢について、絶えず吟味していくことはとても大切なことで
す。
これから背教が起こり、反キリストが立っていくことによって、私たちの信仰の真価が試されるか
らです。
そして、恐ろしいことに、地についたクリスチャンは、主の御顔から永遠に退けられてしまうとい
うことが聖書には書かれています。
本日学んだやもめの歩みに見習っていきたいと思います。
主の前にへりくだり、主ご自身だけを見上げ、主に心を捧げていく歩みをしていきたいと思いま
す。

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