聖書箇所の御言葉 ルカ12

聖書箇所 ルカ12:13-21

 

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この箇所では、愚かな金持ちの譬えを通して、イエス様が大切なことを語っておられます。

 

ちなみに、聖書は、イエス・キリストについて証されているものであり、永遠の命について書かれているものです。

つまり、私たちクリスチャンに対して、語られているものです。

そういった視点で、この箇所について、神様が語られていることをみていきたいと思います。

 

13節では、群集の中の一人が、その人の兄弟に遺産を分けるように話をして欲しいということを、イエス様にお願いしました。

しかし、イエス様は、その人が言われたことに動じませんでした。

14節にあるように、「いったいだれが、私をあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と、そのことについて、はっきりとお断りしました。

続けて、群集に向かって、15節から21節のことを言われました。

 

この箇所は、一見読むと、信仰とは無縁の未信者の金持ちについて、言われているように思えます。

しかし、そうではなく、群集、つまり、信仰を持っているクリスチャンに対して、警告されました。

 

信仰について少しのべたいと思います。

信仰の世界は、世の価値観とは、異なります。

極端な言い方をすると、正反対とも言えます。

この世は、あらゆる誘惑や欲望に満ちているからです。

しかし、このことは、先にのべたように、この世の人、いわば異邦人のことだけに該当するわけではありません。

イエス・キリストを信じるクリスチャンにも当てはまることなのです。

クリスチャンが貪欲であるというのは一見ピンと来ないことかも知れません。

しかし、15節で、「どんな貪欲にも注意して警戒しなさい」とイエス様が前もって語っています。

聖書で言われている「貪欲」とは、信仰と関係があります。

なぜかというと、聖書には「金」や「銀」という言葉が頻繁に使われていて、これらのものは、信仰を指すものだからです。

 

15節から、順に見ていきたいと思います。

 

15節の「財産」という言葉に目を留めていただきたいと思います。

ここで、言われている「財産」とは、「教理」や「賜物」のことを言われているのではないかと思います。

確かに、教理や賜物は、神様からいただくものです。

でも、いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないと言われているように、永遠の命の基準は教理や賜物をどれだけ持っていたのかではないことを言われているのではないかと思います。

 

そのことについては、以下、16-21節に書かれている通りです。

16節にある金持ちとは、信仰に富んでいる人、具体的には、メッセンジャーや教師や牧師のことを言われていると思います。

さっきも申し上げたように、「金」や「銀」は、信仰を表すものであり、「畑」は、教会を指すからです。

17節,18節にある作物や穀物とは、「メッセージ」や「教理」のことを言われていると思います。

なぜかというと、「穀物」に関して、下記のように言われているからです。

参照 レビ記 2:4 あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物をささげるときは、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れない輪型のパン、あるいは油を塗った、種を入れないせんべいでなければならない。

 

ここで、「パン」という言葉が出てきます。

皆さんも御存知かと思いますが、「パン」と言う言葉は、新約聖書にも度々出てきます。

とても有名な話ですが、イエス様は弟子たちを通して、5,000人の群集にパンを分け与えました。

確かに、パンは、私たちが、日常、口にする食べ物でもあります。

しかし、聖書で言われているパンは、読者の皆さんも、よく耳にする言葉だと思いますが、「命のパン」、つまり、「御言葉」のことを言われています。

そのことから、穀物が「メッセージ」「教理」に通じることであることが御理解いただけるかと思います。

 

18節にある、「倉」とは、「教会」のことを指します。

「あの倉を取りこわして」に続いて、「もっと大きいのを建てる」とは、信者の数が増えて、収容出来なくなってしまったので、より大きな会堂を建てるということなのではないかと思います。

 

更に、19節では、「この先、何年も、語るべきメッセージや賜物は沢山蓄えられている、だから、安心だ、これらのもので信徒を養える」ということを言われています。

メッセージ、賜物、それ自体は、尊いものです。

しかし、「自分のたましいにこう言おう」この言葉に着目していただきたいと思います。

ここで、言われているのは、果たしてメッセージや賜物が神様から来たものなのかどうか?あるいは、神様に捧げられたものであるのか?そのようなことを言われているのです。

メッセージや賜物が、信者獲得のためであったり、自分に都合がよいものであったりしてはならないのです。

そして、結論として、20,21節では、そのようなものに、全く価値は無いと、イエス様は、はっきりとおっしゃっています。

つまり、人を喜ばせるのではなく、神様を喜ばせるメッセージを語り、賜物を用いていくことに、御心があるのだと言われているのです。

21節にある「神の前に富む」とは、そのようなことを実践していくことなのだと思います。

 

話は前後しますが、15節に書かれている、「どんな貪欲」とは、必ずしも、地上の財産や地位や名誉のことだけを指すわけではないのです。

信仰の世界、クリスチャンであっても、「貪欲」というのは、無縁ではないということを御理解いただきたいと思います。

神様が真に語っていること、つまり、聖霊を求めることよりも、信徒の数にこだわり、知恵や知識、賜物等、これらのものを追求したり優先したり、執着したりすることは、あわや、永遠の命を失う危険性があることを言われているのではないかと思います。

そのような人に対して、20節では、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」とあります。

ちなみに、「愚か」という言葉は、「愚かな花嫁」に通じるかと思います。

愚かな花嫁は、花婿であるキリストに「あなた方を知らない」と退けられてしまいました。

なぜでしょうか?

賢い花嫁は、油を持っていました。

つまり、聖霊によって歩んでいました。

しかし、愚かな花嫁は油を持っていませんでした。

聖霊の力によって歩んでいなかったのです。

ここでも、同じことが言われています。

人から見て、良いメッセージを語り賜物を用いたとしても、しかし、聖霊の油が無いのなら、そのようなものは、神の前に愚かであり、退けられ、はたまた、たましいが取り去られる、永遠の命が取り去られることを言われているのだと思います。

ぜひ、このことを厳粛に受け止めていきたいと思います。

常に、神様の御心を尋ね、言われていることに耳を傾けていきたいと思います。

特に、教理や御言葉を扱う奉仕者は、注意していただきたいと思います。

神様に向けて、メッセージ、福音を語っているのかどうか?絶えず、このことを祈りの中で確認しながら、主が語られていることを、語っていきたいと思います。

 

また、終末は、惑わす力が横行し、キリスト教会が闇の勢力で覆われ、多くのクリスチャンが信仰を捨てる時代です。

神様の愛ばかりが強調され、肝心な死後の裁きについて、言われることがほとんどありません。

しかし、このようなことは、神の怒りをかうことを重々御理解いただきたいと思います。

また、神様の怒りをかうだけでなく、恐ろしいことに、多くのクリスチャンが永遠の命を失ってしまう結末になります。

そのようなことを踏まえて、常に、神様に恐れをもって、御言葉を宣べ伝えていきたいと思います。

そして、21節にあるように「神様の前に富む者」、「神様の前に尊い器」となり、御国を受け継ぐにふさわしい者になっていきたいと思います。

 

信仰生活を送っていて、時々考えることがあります。

それは、内面的なもの、心が、神様の霊によって支配されているかどうかということです。

御言葉にも、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」と、あります。

たとえば、奉仕をしていて、はじめは、神様のためと思っていても、それが、いつの間にか、建前だけになっていることがあります。

神様の前に、忠実に行えば良いと理解しているのですが、心のどこかに、人からも良く思われたいという思いがいつまでも、根付いていることに気が付きます。

それは恐らく、自分のたましいに喜びや満足を見出そうとしているからなのだと思います。

まだまだ、自分自身を捨て切れていないのだとも思います。

しかし、そのことを完全に断ち切っていかない限り、神様の栄光はなかなかあらわされないのではないかということに最近少しずつ気づくようになりました。

今は、まだ、そのような状態ですが、「神様の前に富む者」になれるように祈り、神様だけの栄誉を求めていかれるようになれたらと思います。

 

 

聖書箇所の御言葉 ルカ11

聖書箇所 ルカ11:1-4

 

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

1節で、一人の弟子が、イエス様に祈りのことについて聞いています。

そして、2節から4節で、どのように祈ったらよいか、イエス様は教えてくださいました。

「父よ。御名があがめられますように・・・」からはじまる祈りのことを、私たちは、「主の祈り」と呼んでいます。

このお祈りのことを大半のクリスチャンは御存知でしょうし、日々の信仰生活の中で、あるいは、礼拝の時に祈っているかと思います。

 

本日は、「祈り」について、主の語りかけを聞いていきたいと思います。

 

唐突な話で恐縮ですが、「祈り」というのは、クリスチャンの死活問題にかかわることです。

なぜかというと、クリスチャンは、聖霊の中で、生かされるものだからです。

ちなみに、「祈り」と「聖霊」は、とても、密接な関係にあります。

祈ることによって、聖霊の力が働くからです。

 

例を挙げると、海や川に生息する魚のようなものです。

魚は、常に、水の中で生きていくものです。

もし、水が無くなったら、あっという間に干上がり、死んでしまいます。

 

クリスチャンも、同じです。

「聖霊」は、いろいろなものにたとえられていますが、その中でも、「水」という言葉が、頻繁に使われています。

聖霊に触れて、はじめて、霊が生きていくのです。

もし、聖霊である「水」が乾いてしまったり、無くなってしまったら、霊的に飢えたり、渇いたりしてしまいます。

そして、祈り求めていかないと、枯渇してしまい、霊的には、死んだも同然、つまり、クリスチャンとしての働きが停滞しまうのです。

 

また、「祈り」は、天の父とのコミュニケーションの手段でもあります。

天の父は、私たちの肉眼で見えるものではありません。

また、肉声が聞こえるわけではありません。

しかし、祈りを通して、霊的に交わることが可能になります。

祈っていくことによって、人知を遥かに超えた喜びや平安を得たり、神様御自身を知ることや御心を捕え、行っていくことにつながっていきます。

ゆえに、クリスチャン生活の基本は、「祈り」と、言っても過言ではないことが御理解いただけるかと思います。

 

逆に、祈り無しに、奉仕をすすめたり、兄弟姉妹との交わりをはじめ、人との関わりは、うまくいきません。

必ずどこかで限界を感じたり、方向がズレてしまったり、疲れてしまったりして、結果として、的外れになってしまいます。

ですから、何をしていくにしても、祈りは必須であることを御理解いただきたいと思います。
祈っていくことによって、聖霊の力を得ていく中で、教会の働きをすすめたり、問題があれば、速やかに解決への導かれたり、兄弟姉妹をはじめ、他の人との関係も御心の中でスムーズになっていかれます。

 

また、クリスチャンは、「羊」にたとえられています。

羊は、とても弱い動物と言われています。

いつも、羊飼いの助けや守りを必要とするわけです。

私たちクリスチャンも、羊のように弱い存在だということです。

ある意味、クリスチャンライフは、見えない「悪」との戦いとも言われています。

私たちの敵とか悪魔とか言われている「サタン」は、私たちよりも強い存在です。

クリスチャンの信仰を奪うためには、手段はいとわずに、ありとあらゆる手を尽くしてきます。

知能が人よりも高く、私たちを騙すのは、赤子の手をひねるよりも、簡単だとも言われています。

ゆえに、私たちは、常に主に守っていただかなければなりません。

そのためには、謙遜になって、心を尽くして、そのことを主に祈り求めていく必要があります。

そうでないと、あっけなく、敵に倒されてしまいます。

聖霊の力を祈り求めずに、自分自身や人の力により頼むことには、御心はありません。

 

そして、今は、終末です。

世の終わりのことについては、聖書の至る箇所に記されています。

その中の大きな特徴の一つは「惑わす力」です。

このことは、イエス様御自身が語っておられることです。

そして、この惑わす力というのは、単に、敵が惑わすということもありますが、神の民の背信のゆえに、主の赦しによって、もっとはっきり言うと、いつまでも心を頑なにして御言葉に聞き従わないクリスチャンへの裁きのために神様御自身が送り込まれるものなのです。

このことは、厳粛に受け止め、考えるべき大切な事柄です。

日々の歩みにおいて、ろくに祈らず、聖書も読まない、正しく御言葉を理解せずに、嘘・偽りや空想話を信じたり、人の考えや思いを優先して御心を行わない、そのようなクリスチャンが悔い改めるのを神様は忍耐を持って待っておられます。

しかし、ずっと待っていてくださるわけではないのです。

神様にも限界があることを御理解いただきたいのです。

                    

ルカ13:6-9には、このようなことが書かれています。

 

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 

御声に聞き従わない人、実を結ばせないクリスチャンは、主からいずれ、退けられてしまうことが理解できます。

7節の、「切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」というのは、敵の剣、すなわち、曲げられた教理によって、いずれ倒されてしまうため、何も実を結ばないということだと思います。

実を結ばないクリスチャンは、残念ながら天の御国を受け継ぐのは、難しいと思われます。

このことに恐れを持っていきたいと思います。

 

本日のポイントをまとめます。

「祈り」は、クリスチャン生活の根幹にかかわることを常に念頭においていく必要があります。

御言葉にも「絶えず祈りなさい」ということが、繰り返されています。

祈っていくことによって、神様の導きによって、自ずと御心を行う人に変えられていきます。

神様の御心を祈り求めていく人に、憐れみをもって、必要なことを語り、助けや導きを与えてくださり、義の実を結ばせていくようになります。

また、それだけでなく、惑わす力をはじめ、敵の攻撃や妨害からも守られ、勝利していかれます。

日々の歩みにおいて、祈りと御言葉を優先し、御声に聞き従う歩みを成していきたいと思います。

 

弟子の歩みに入る以前は、それほど、祈りの重要性について考えていませんでした。

祈らなかったというわけではありませんが、かなり惰性が入っていたように思います。

しかし、礼拝や弟子の歩みの学びや御言葉や日々の歩みを通して、祈っていくことの大切さを、最近になり、痛切に感じるようになりました。

今では、祈り無しには、不安でいっぱいになり、何もする気になれません。

はじめは、「祈りができますように」という風に、祈り求め、それから、祈り主体のクリスチャン生活に少しずつ変えられていきました。

祈りを通して聖霊の力に触れることができ、言葉にならないほどの平安や喜びに満たされていることを、感謝する毎日です。

 

 

聖書の御言葉 ルカ10

聖書箇所 ルカ10:21

 

10:21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 

この箇所を通して、「聖霊」について、主が語ってくださったことについて、みていきたいと思います。

 

イエス様が言われた「聖霊による喜び」、このことは、私たちクリスチャンが日々、あるいは瞬時において、体験すべきものです。

毎日の信仰の歩みにおいて、聖霊によって、喜びに満たされているクリスチャンは、どれくらいいるでしょうか。

聖霊の力を、体験していかなければ、真の意味合いで、神様にお仕えしていくことは難しいと思います。

聖霊の力を得ていくためには、日々、祈りに時間を費やし、御言葉を読み込んでいくことが必須です。

そして、そのことにプラスして、上記御言葉に書かれているように、「幼子」のような信仰を持っていくことにポイントがあります。

 

この世的に賢いこと、知恵を持っていることは、人間的な視点だと、一見、良いことのように思われます。

しかし、神様の前では、そうではないのです。

なぜなら「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。」とか、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」とか「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」等の御言葉が、そのことを裏付けているからです。

ちなみに、ここで言われている「賢い者、知恵ある者」とは、パリサイ人や律法学者、今で言う、神学者やキリスト教界を先導している指導者のことを言われているのではないかと思います。

あるいは、理屈ばかりこねて、御言葉を行わない人、つまり、神様の心からかけ離れている人達のことを指すのではないかと思われます。

残念ながら、いくらこの世の知識や知恵に富んでいる人であっても、必ずしも、そのような人たちが、神様のことを正しく理解するとは限らないと言われているのではないかと思います。

また、世と世のものは過ぎ去ると言われているように、この世のものを、どんなに追求しても、いつまでたっても真理に到達出来ないことを御理解いただきたいと思います。

 

また、この世で成功したり、人から認められたりしたとしても、その人の内面的なものまで満たされるのかというと、そうではなさそうです。

この世の有様は過ぎ去ると言われているように、目に見えるもの、つまり、世のものというのは、すべて一時的なものばかりだからです。

たとえ大きな悩みや問題が無く、何の不自由の無い生活を送っていたとしても、神様にあっての喜び、つまり、聖霊の喜びに欠如していたのであれば、常に心は空しく、肉体は生きていたとしても、霊的には死んでいるのです。

そして、私たちの心の空虚な部分を埋めて下さるのは、神様の力、すなわち聖霊の力だけなのです。

 

さて、さきほど、「幼子」のような信仰を持つことが、聖霊の喜びに満ち溢れていくポイントだということを申し上げましたが、このことで、具体的なことについて見ていきたいと思います。

「幼子」とは、読んで字のごとく、「幼い子」という意味です。

幼い子の大きな特徴の一つとして、常に助けを必要とします。

たとえば、人間の赤ちゃんや小学校に上がる前の幼児のことを考えてみてください。

自分では、ほとんど何も出来ないので、何かと、親を頼ります。

そして、頼ってくる我が子に、親は助けの手を差し伸べます。

また、素直であることも、幼子の特徴です。

親のことを全面的に信頼しているので、親の言うことは何でも素直に聞き入れます。

クリスチャンの歩みについても、このことは当てはまります。

私たちは、肉体の親もいるかも知れませんが、真の意味合いでの親、霊の父親は、「天の父」であります。

天の父が言われること、つまり、すべての御言葉を信じて、受け入れることに御心があります。

しかし、今の時代、曲がった教理がキリスト教界に出回っています。

これはある意味、世の終わりには、聖霊が追い出されるということの御言葉の成就だと思います。

たとえば、クリスチャンは一度救われてしまえば大丈夫とか、艱難の前に天に挙げられる等です。

耳には良いものですが、残念ながら、こういったものは、天の父からのものではありません。

敵が持ち込んできた、嘘・偽りの教えです。

このようなものを吟味もせずに、安易に受け入れてしまうと、永遠の命を失ってしまう危険性があるので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

そのためには、目にするものや耳にするものについて、御言葉と照らし合わせていくことが大切です。

また、私たちが、御言葉を読んだり、聞いたりする時に、この世の知恵や知識や固定観念や先入観を捨てる必要があります。

なぜかというと、こういったものは、真理を阻む可能性があるからです。

イエス様御自身が、人の言い伝えは神のことばを空文にすると言われています。

御言葉が語っている正しいこと、このことを正しい心で受け止め、御心を行うことが大切です。

そのことを実践していくことによって、私たちは、聖霊による喜びの中で生かされ、天の父の子供とされることを御理解いただきたいと思います。

 

本日の要点をまとめます。

クリスチャンとして歩んでいくためには、聖霊に触れていくことにポイントがあります。

また、私たちを助けて下さるのは、聖霊です。

残念ながら、どんなに親しい人であっても、また、家族、友人、あるいは教会の牧師や信徒をはじめ、人は、私たちの信仰の歩みを助けたり、導いたりすることは出来ません。

聖霊だけが、私たちの歩みを助けて下さり、正しい方向へと導いて下さいます。

ゆえに、信仰生活を送っていく上で、聖霊の働きは不可欠であります。

しかし、問題は、私たちが常に、聖霊に助けを求めているかどうかです。

と、言うのは、聖霊、つまり、キリストは、目には見えないゆえに、通過してしまう可能性のあるお方だからです。

そして実際に、必要としなくても、特に問題が無いと思っているクリスチャンが案外多いのです。

聖霊に助けを求める、聖霊により頼むというのは、単に、聖霊の存在を認めることではないのです。

はじめに申し上げたように、祈り求めていかなければ、聖霊の働きや導きや助けを得ていくことは出来ないのです。

つまり、求めていかないと、霊的に正しく見えなくなったり別のものをつかんでしまったりするので、危険な状態の中に入ってしまったり、真理の道ではない別の道を歩んでしまうことになります。

また、信仰の歩みだけでなく、神様の働きを担っていく上で、聖霊の働きは、不可欠です。

祈り求めていくときに、人知を超えた喜びや知恵や力を得て、教会の奉仕、個々における召しを担っていかれるようになります。

このことは、神様の御業や栄光をその都度見ていくことに、通じていきます。

ぜひ、聖霊に助けを求め、御声に耳を傾け、主の御心を行い、多くの実を結ばせていきたいと思います。

 

最近使徒の働きの箇所を通して、クリスチャンが、もし、聖霊から離れてしまったら、命(霊的な)が無くなるということを教えていただきました。

聖霊は、水にたとえられているのですが、水も、飲んだり、生活で使用しているうちに、すぐに無くなってしまいます。

それと同様に、祈らないと水、すなわち、聖霊は与えられませんし、すぐに枯渇してしまうことを学ばせていただきました。

また、祈りを身につけていくことによって、おかしな惑わしから守られたり、失敗しても立ち上がっていかれることを教えていただきました。

また、弟子の歩みをしていく中で、特に、祈りの必要性について、最近、主からあらゆる形で語りかけを受けているのですが、その通りだという風に、礼拝のメッセージを通しても、改めて、確信しました。

これから、更に背教が進み、正しく御言葉に立とうとしていくクリスチャンにとっては、困難な時代に入っていくと思いますが、絶えず祈り、どこまでも御言葉に堅くとどまっていくことは大切だと思いました。

日々の歩みの中で、祈りが強められるように祈り求めていき、常に聖霊と共に、歩みを成していかれたらと思います。

 

 

聖書の御言葉 ルカ 9

聖書箇所 ルカ9:23-25

 

9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

 

上記御言葉は、大半のクリスチャンが御存知だと思います。

 

私は、洗礼を受けてから、この御言葉について、度々考えていました。

御言葉の奥義に関して、学んだり、深く考えたりはしませんでしたが、少なくとも、23,24節の御言葉が、「永遠の命」を獲得する条件であることは、ぼんやりと理解していました。

 

本日は「永遠の命」というテーマで、御言葉を学んでいきたいと思います。

 

クリスチャンであれば、大半の人は、「永遠の命」という言葉を御存知だと思います。

しかし、この言葉を正しく認識しているクリスチャンは、どれくらいいるでしょうか。

過去、私も、はっきりとは理解していない一人でした。

 

ところで、今は、終末です。

すべてのクリスチャンが平穏に迎えられるかどうかは別として、イエス様の再臨の時を待っている状態です。

また、終末は「ノアの洪水の時」とか「ロトの時代」とも言われています。

 

参照 ルカ17:26-30

17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。

17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、

17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

 

今の終末と同様、ノアの時代やロトの時代も、神の民であるクリスチャンはとても堕落していました。

ノアの時代のことを例に挙げると、洪水が起こることは、前もって神様が語っていました。

それにも拘わらず、その洪水に備えたのはノアとその家族だけでした。

そして、わずか、8人だけが洪水から逃れることが出来ました。

他の人たちは、皆、滅んでしまったわけです。

 

当時、何千万人、何億人、何十億人の人々が、この地上にいたのかは、分かりませんが、ノアとその家族、たった8人だけが、命への道に予め備え、助けられました。

つまり、その他の人たちは皆、命を失ったのです。

これが、単に肉体の命だけならよいのですが、そうではなく、永遠の命も失ってしまったと思います。

このことに、大きな語りかけを感じます。

 

これから、更にクリスチャンの背教が進むゆえに、神様の怒りが極みに達し、不法の人が送り込まれ、大艱難時代を迎えることになります。

 

参照 マルコ13:19

13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。

 

Ⅱテサロニケ2:1-4

2:1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。

2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

このように、聖書では、主の来臨やクリスチャンが艱難時代を通過することについて、前もって語られています。

それにも拘わらず、残念ながら、多くのクリスチャンが艱難のための備えをせずに、油断しています。

 

ノアの時代の人々も、まさか、自分が滅ぼされるとは、夢にも思っていなかったようです。

つまり、「永遠の命」は、既に、ゲットできたものだと、そのように考えていたと思います。

そうでなければ、ノアとその家族と共に洪水のための備えをしていたはずです。

御言葉に、「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」とあるように、滅ぼされる時が来るこということを、全く思っていなかったわけです。

 

このことは、新約時代を生きる私たちクリスチャンへの警告でもあることを御理解いただきたいと思います。

艱難時代を通過することを踏まえて、前もってそのための備えをすべきなのです。

 

また、23節にあるように、「日々、十字架を背負う歩み」が、永遠の命を獲得するための条件であるとも言えます。

昨今、「永遠の命」が、クリスチャンやキリスト教界の間で、いとも簡単に手に入るように言われています。

しかし、聖書をよく読むと、残念ながら、そのような記述は、どこにも見当たりません。

Ⅱテモテには、「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」と、書かれています。

たとえば、スポーツの世界で時々耳にすることですが、金メダルを獲得した選手が、後になって、ドーピングや反則が発覚されて、メダルを剥奪され、それだけでなく、処分を受けることがあります。

つまり、規則に基づいて競技しなければいけないことが理解出来ます。

クリスチャンの歩みについても、同様のことが言えるのではないかと思います。

何を基準にしていくのかというと、「御言葉」です。

なぜかというと、私たちは、死後、各自の肉体の仕業に応じて裁きを受けるからです。

すなわち、「御言葉」によって、裁かれ、報いを受けるのです。

 

日々、十字架を負って、主に従う歩み、このことを真剣に考えていくべきなのです。

「十字架を負う歩み」とは、24節に書かれているように、主に、どこまでも、捧げていく歩みです。

分かりやすく言うと、主の御心にどこまでも、従っていく歩みです。

その歩みをしていくためには、自分自身に死んでいくことです。

具体的には、自分の思いや考えよりも、聖書に書かれている御言葉を何よりも優先していくことです。

そのように生きていくことは、この世的には、多くの犠牲を払ったり、喪失してしまったり、場合によっては肉体の命が危ないと思われることも時としてあるかと思います。

しかし、そのようなことを承知の上で、主に従う歩みに、神様の御心があります。

ただし、「十字架」を背負うことは、決して強制ではありません。

自分の意志で、このことを決断し、率先して、背負うものだからです。

また、一見、多くのものを失うようにも思います。

しかし、主のために、命を捨てることは、それを得ていくことが、御言葉では、約束されています。

25節にあるように、この世において、お金や地位、名声をはじめ、すべてのものを得られようとも、後の世において、「永遠の命」を失ってしまったら、もう、取り返しがつかないことになってしまうことを今のうちに理解する必要があります。

 

福音書の中で、イエス様は、天の御国についての、たとえで話をされました。

ある時、その話を聞いていた人の中で、「主よ。救われる者は少ないのですか」と、尋ねる人がいました。

その時に、イエス様は、このように言われました。

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから」と。

単に、神様を信じていれば、クリスチャンと名がつけば、洗礼を受けていれば、集会に出席していれば、皆が天の御国に入れるわけではないことを、このことからも、理解できるかと思います。

 

聖書に書かれていることは、すべて真実です。

また、これからは、惑わす力や、嘘・偽りの教理によって、多くのクリスチャンが倒されてしまうことが前もって、御言葉は語っています。

どのような時にも、御言葉を最優先し、それぞれ担うべき重荷を背負って、主に従っていく歩みを自ら選んで、永遠の命を得ていきたいと思います。

 

弟子の歩みをする以前は、人間的な視点で「十字架を背負う」ことについてとらえていました。

そんなことを選んだら、損だとか、人から嫌がられたり、悪口を言われたりするのには抵抗があるだとか、そのようなことを考えていました。

しかし、エレミヤの部屋のHPのメッセージや御言葉を通して、心の根底にあるものが変えられました。

また、「すべて疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とか、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば安らぎが来ます」とか「わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」と、聖書に書かれています。

これらの御言葉から、いくら、この世の知識や知恵に富み、この世的な安心感を得たとしても、そのことでは、いつまでたっても、魂に安らぎが得られないことを教えられました。

そして、主に従うことが、何よりも安全で、平安や喜びを得ていかれることを理解しました。

このような思いにさせていただいたことは、主の憐れみだと思います。

主に従っていく、このことは「永遠の命」を得るだけでなく、この世においても、祝福や恵みをもたらすものであり、何よりも主との関係を平安に保っていくことのポイントとも言えるのではないかとも思います。

自分には、力や知恵をはじめ何もありませんが、主の助けと導きの中で、十字架を背負う歩みを成していかれたらと思います。

 

 

 

聖書の御言葉 ルカ 8

聖書箇所 ルカ8:4-10

 

8:4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。

8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。

8:7 また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。

8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。

8:9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。

8:10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。

 

ここの箇所では、「たとえ」という言葉が使われています。

「たとえ」とは、字のごとく、「たとえること」とか、「比喩」という意味合いです。

つまり、そのまま文章を読むなら、意味を理解することが出来ません。

ゆえに、その文章が本来語ろうとしていることについて、読み取っていく必要があります。

 

クリスチャンであれば、誰しもが、何らかの機会を通して、聖書の御言葉に触れていると思います。

ある人は、毎日熱心に聖書を読んでいるでしょうし、メッセージやキリスト教関連の書物やクリスチャン関連のもの、たとえば、御言葉のカレンダーを通して、目にしたり、耳にしたりしていると思います。

 

私たちが、何気なく、読んだり聞いたりしている御言葉は、文字通り読める部分もありますが、実は、ほとんどの御言葉が「たとえ」で語られているのです。

なぜなら、イエス様御自身が、御言葉を語る時に、たとえによらないで、話されることはなかったと言われているからです。

 

私自身、このことに気づかせていただくのに、かなりの年数を要しました。

と、言うのは、クリスチャンになってから、長い間、群集の歩みにとどまっていたからです。

10節にあるように、群集には、残念ながら、御言葉の奥義、つまり、譬えの意味合いを悟ることが許されていないのです。

なので、イエス様がたとえによらずに話をされなかったと言われていたことすら、理解出来ませんでした。

しかし、おととしの11月に弟子として歩む機会が与えられ、日々、歩みを重ねていく中で、ようやく、そのことを少しずつ理解出来るようになりました。

10節に「あなたがたには、神の奥義を知ることが許されている」とあるように、弟子として、歩む人には、主が、教えてくださることは、本当だなぁということを日々の歩みの中で、体験させていただいています。

このことは、弟子の歩みをしてみて、はじめて分かることです。

なぜかというと、群集の歩みにとどまっている時というのは、主に徹して従っていないので、いくら、真理を見ようとしても、敵の力によって、かき消されてしまうのです。

うまく、表現出来ませんが、主と完全にひとつになっている人に神は栄光をあらわすと御言葉にあるように、常に主と共に歩みむことによって、御言葉のことを少しずつでも理解出来るようになりました。

 

結論から申し上げると、弟子の歩みを選び、正しく歩んでいく人には、譬えの意味合い、御言葉の奥義を解き明かしていただけます。

 

また、15節には、8節に書かれていることの解き明かしがされていて、「正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」とあります。

ここで言われていることは、同じ御言葉を聞いても、理解の仕方は様々だということです。

クリスチャンなら、毎週礼拝に集い、メッセージを通して御言葉に触れていると思います。

だからと言って、皆が皆、正しく理解しているかというと、そうではないように思います。

なぜなら、ここのたとえにもあるように、悪魔が来て御言葉を持ち去ってしまったり、喜んで受け入れても、続かなかったり、あるいは、御言葉よりもこの世のものにとらわれて実を結ぶことまでに到達しない人が多いからです。

4パターンのたとえ話があり、最後のひとつだけが、神様の御心にかなう歩みだということを御理解いただきたいと思います。

4人のクリスチャンがいるとして、そのうち正しく理解する人は、1人だけだということなのでしょうか。

いいえ、そうではないように思います。

天の御国への道を見出すのはまれであるという御言葉から考えると、更に低い確率であることが理解できるのではないでしょうか。

8節に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているように、正しく聞いていくことに御心があります。

 

また、御言葉を単に聞くだけで、終わらせることに御心はありません。

「しっかりと守り、よく耐えて」の言葉に語りかけがあります。

しっかりと守る、つまり、御言葉を実践していくことが大切です。

御言葉を知っているだけで、行わないのでは、意味が無いのです。

先ほど、弟子の歩みについて触れましたが、主の弟子というのは、キリストが歩まれたように歩んでいく人のことを言います。

イエス様は、常に、神様の御心を行っていました。

そのことと同様に、私たちも、祈りや御言葉を通して、神様の御心を知り、行っていく必要があることを御理解いただきたいと思います。

また、神様の御心というのは、私たちの喜びとしないこと、つまり、肉の思いや欲望に反したことが多いので、忍耐を要することも、理解する必要があります。

生まれつきの考えや思いを優先していたら、いつまでたっても、御言葉を実践することに到達しません。

心の思いや考えをはじめ、すべてを主に明け渡して御言葉に従う時に、聖霊の力によって、義の実を結ばせていきます。

そのために、御心を行っていくことに加えて、忍耐力を祈り求めていく必要があるかと思います。

 

このことは、これから背教が起こり、艱難時代を通過していく上でのポイントにもなると思います。

いまだかつてないような、今後もないような、大変な苦難の時がくると、艱難時代についてイエス様は前もって私たちに語られています。

その時に、必要なのは「忍耐」であると、言われています。

また、忍耐によって、自分の命を勝ち取ることができるともあります。

 

御言葉の聞き方、そして、聞いたらどのように対応していくのか、主が御言葉を通して、私たちに語ってくださったことについてきちんと受け止めていきたいと思います。

18節には、御言葉を聞いても行わない人がどのような結末を迎えてしまうのかについても書かれています。

 

繰り返しになりますが、御言葉を正しく聞いて行っていくことに御心があります。

そのためには、弟子の歩みが必須であることを、御理解いただきたいと思います。

真に主に従う人、あるいは従おうと志す人に、主は目を留めておられ、そのような人に必要なすべてのことを語ってくださり、歩みを導いて下さいます。

せっかく、神様を信じて、キリストを救い主として受け入れて、クリスチャンとして歩まれているのでしたら、キリストと共に、弟子として歩まれることをおすすめします。

神様のことを知ることは、正しく御心を行う上で大切なことですし、このことは、場合によっては、私たちの死後の行き先を決定付けてしまうものなので、神様の前に、正しく賢い選択をしていきたいと思います。

キリストの弟子として歩み、御言葉の奥義を悟り、とこしえの義の道を歩み、天の御国を受け継いでいきたいと思います。

 

 

聖書の御言葉 ルカ7

聖書箇所 ルカ7:1-10

 

7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。

7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。

7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。

7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。

7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

 

この箇所に出てくる百人隊長を通して、イエス様が奨励している信仰の姿勢について学んでいきたいと思います。

 

ここでは、百人隊長のしもべが病気になったので、助けを求めに、長老たちをイエス様に遣わしました。

マタイの福音書を読むと、隊長御自身がイエス様を直接訪ねに行っていることについて、書かれています。

しかし、いずれにしても、6節にあるように、イエス様が来られることをお断りしました。

理由については、7,8節に書かれている通りです。

そして、9節にあるように、イエス様は、百人隊長が言われたことに対して驚き、隊長の信仰について、群衆の前で、賞賛しています。

隊長は、はじめから、このような対応をしようと思っていたわけではなかったと思います。

3節にあるように、しもべを通して、イエス様に来て下さるように助けを求めているからです。

最終的には、お断りしたわけですが、そうなる過程において、様々な思惑もあったのではないかと思います。

このことに語りかけがあるように思います。

 

イエス様が近くまで来られていたことを百人隊長は御存知でした。

ゆえに、イエス様は百人隊長との間に、距離がありました。

この時のイエス様は、肉体を持っておられたので、人のところへ行くのに、物理的に移動する必要が

ありました。

そして、6,7節に書かれていることは、ある意味、イエス様がわざわざ自分のしもべのために来てくださったことに対する、敬意を示す態度であったと言えると思います。

 

今の時代、肉体を持ち目に見えるイエス様は地上にはおられません。

そのかわりに助け主である聖霊が、私たちと共におられます。

しかし、そのことを頭では理解していても、普段の信仰生活に取り入れているクリスチャンは案外少ないように思います。

私たちが、困ったとき、にっちもさっちもいかないようなことに直面したときに、すぐに神様にそのことを持っていかないで、自分の頭で考えたり、悩んでしまったり、人に助けを求めてしまったりしているのではないでしょうか。

あるいは、この世の方法や力を頼みとしてしまうことはないでしょうか。

人の力、つまり神様の力以外のもので何とかしようとすることは、その時点で、それは信仰ではないことに気づいていただきたいのです。

 

信仰、このことに関して、特別なことは何もありません。

この時の百人隊長のように、単純に信じれば、良いのです。

7節に、「お言葉をいただかせてください、そうすれば、しもべは必ず癒されます」とあって、イエス様から言葉をいただき、信じた結果、しもべは癒されたのです。

決して、難しいことではないですよね。

人は、様々な出来事に直面します。

それは、時として、自分の力ではどうにもならないようなこともあります。

そのような時に、どうしたらよいのでしょうか。

単純に、神様に助けを求めればいいのです。

聖霊に触れること、つまり、祈ることに御心があります。

それだけのことです。

この箇所にあるように、他の人の癒しのことであったとしても、御心であれば、聞いて下さるのです。

本人が求めていくなら、なおのこと、答えてくださることが理解できるかと思います。

ここでは癒しのことが取り上げられていますが、このことは、霊的な戦いをはじめ、どのようなことにおいても当てはまると思います。

どこまでも、主の力を信じて祈り求めていくことによって、行く先々において主にあって勝利していかれることが可能になります。

 

また、「権威」という言葉に着目していただきたいと思います。

「権威」という言葉は、聖書のところどころに見受けられます。

ここでは、権威に従うことの大切さについて学ぶことが出来ます。

地上においても、様々な権威はあります。

そして、すべての権威は神様によるものなので、従う必要があります。

しかし、どんなに地上で偉いと言われている人でも、目には見えなくとも、キリストが最高の権威者であることを御理解いただきたいと思います。

このことは、教会、つまり神の国に関しても当てはまることです。

教会、そして、神の国を真の意味合いで統治されているのは、イエス・キリストです。

私たちは、このことを念頭に置いて、神様にお仕えしていくのです。

たとえ、牧師や神父、あるいは、教える立場であったとしてもです。

キリストですら、神でありながらも、そのことに固執せずに、むしろ御自分を無にしていました。

 

参照 ピリピ2:6,7

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 

上記御言葉や、ここに登場する百人隊長から、神様の前に謙ることや従うことの大切さについて教えられるかと思います。

 

本日のポイントをまとめます。

信仰の基本は、主を信じて、従うことです。

そのために、私たちが真っ先にすべきことは、主の前に謙ることです。

人の心の中には、数々の思いや考えがあります。

しかし、神様の力や知恵や方法を祈り求めていく歩みに御心があります。

信仰は、このことの繰り返しと言っても過言ではないと思います。

そのようなことが、信仰の土台を築かれていくことや、主の御声に応答するしもべに立て上げられていくことに通じていくからです。

どこまでも、主を信じて従い、日々の信仰の戦いにおいても、勝利していきたいと思います。

 

この箇所から、謙遜になっていくことの大切さを改めて教えられました。

百人隊長という立場の人であっても、こんなにも御自身を低くしているのですから、何も権威を持っていない自分自身は、尚更、低くなっていくことの必要性を感じさせられます。

主は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを与えられるという御言葉がありますが、この箇所は、そのようなことを言われているのではないかと思います。

私の心の思いの中には、まだまだ「我」というものが根強く残っています。

自分の思いや考えは正しい、気がつくと、無意識のうちにも、自分が自分がという思いでいっぱいです。

しかし、このことを断ち切っていかなければ、神様の栄光や御業が反映されないということについて、理解させていただきました。

自分自身を捨てていくこと、主にすべてを捧げていくこと、私にとってとても大きな課題ですが、まず、祈り求めていくことからはじめていかれたらと思います。

 

 

 

 

聖書の御言葉 ルカ6

聖書箇所 ルカ 6:39 ~6:49

6:39 イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょう
か。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
6:40 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなる
のです。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないの
ですか。
6:42 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてくださ
い。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の
目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。
6:43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
6:44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶ
どうを集めることはできません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜ
なら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、
あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ていま
す。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともし
ませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が
押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

この箇所では、どのような立場の人が聖書の御言葉について語っていくのか、また、信仰者の模範
について、のべられています。
順に見ていきます。

39節
目に見えない人が道の案内をすることは出来ません。
それと同じように、霊的な導きについても、正しく理解していない人は、福音を宣べ伝える働きを
することは不可能です。
なぜかと言うと、教理を正しく学ぶかどうかによって、死後の行き先が、大きく変わってしまうか
らです。
そのように考えていくと、指導者や教師というのは、大きな責任が問われることになります。
正しく働きを行えば祝福を受けますが、そうでなければ、呪いを受ける結果を招くことになってし
まいます。
御言葉を取り次ぐ人は、そのことを留意して、祈りの中で、神様の語りかけを聞いていく必要があ
ります。
今、このように、御言葉について書いている私も同様のことが言えます。
常に、神様に恐れを持って、この働きを正しく成していかれるように、祈り求めながら行うように
心がけています。
メッセージを聞く人や読む人が、神様の前に正しい歩みができるように、永遠の命に至る道を歩め
るように、真理を提供していくことに御心があります。

40-45節
イエス様は、弟子の歩みをしている人に、御言葉の奉仕を任されます。

Ex:4000人の給食 参照 マタイ15:32-38
ただし、ここで注意が必要です。
弟子だからと言って、誰にでもメッセージをさせるわけではありません。
40節にあるように、「十分に訓練を受けた者」にポイントがあります。
レムナントキリスト教会では、土曜日に弟子訓練を行っています。
その中で、祭司・レビ(新約で言う弟子)の学びもしています。
レビ記や民数記から教えを受けているのですが、この間、レビ部族の中にも区分があることを学び
ました。
それは、啓示をもたらす働き、すなわちメッセージの奉仕は、特別であり、正しく行うなら、最も
聖なるもの、神様の前にとても尊い働きであることを教えられました。
そして、この働きは、アロンとその子たちに委ねられたものでした。
新約時代も、同様のことが言えるのではないかと思います。
弟子の歩みをしている人の中でも、奉仕はきちんと区分されなければなりません。
メッセージを語る働きに召されている人と、メッセンジャーや他の献身者を助ける働きに召されて
いる人と、それぞれの人が、主からの召命に従って奉仕をしていくことに御心があるかと思いま
す。
先にも、申し上げたように、メッセージ、すなわち御言葉を取り次ぐ働きに召されている人は、十
分に訓練を受けた人、もしくは、訓練を受けている人です。
そうでないと、御言葉と違うことや御言葉からズレてしまって世の教えを語ってしまった
りして、結果として、教えを受けている人に混乱を与えてしまうことになるからです。
そして、最悪、会衆を祝福や恵みから落としてしまうことになるのです。
そのようなことを回避するために、教会では、聖書の基準に則して、奉仕を担っていくようにし
ます。また、そのことを実践していくことによって、働きをスムーズに進めることにつながり、
教会においても、お一人一人の歩みにおいても、祝福や恵みを受けるようになっていきます。

46-49節
御言葉やメッセージを聞いて、「ああ、良かった、とてもいい教えだった」と、単に感銘を受ける
だけではダメなのです。
49節には、はっきりと、御言葉を聞いても実行しない人は、試練、困難が来た時に、対応す
ることが出来ずに、あっけなく信仰の土台が覆されてしまうことについて書かれています。
このことは、群集の歩みをしている人、あるいは弟子の歩みをしていても、そのことに徹していな
い人のことを言われています。
46節の「主よ主よ」と言いながらも、御言葉、つまり戒めを守らない人は、実は神様の
ことを心から愛していない、そのようなことを言われているのではないかと思います。
この箇所から、御言葉を実践しない人は、残念ながら神様からの守りや助けはあまり期待できない
ように思います。
ですから、先ほど申し上げたように、あっという間に、信仰が崩されてしまうのではないかと思い
ます。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天にお
られるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と、言われていることについて、
このことは、信仰の歩みをしていく中で、厳粛に受け止めていきたいと思います。

後にペテロと呼ばれたシモンは、12弟子の筆頭とも言える人でした。
48節に書かれているように、イエス様から「岩」、つまりとペテロと呼ばれていました。
岩や石、このことは弟子のことを指しますが、ここに、土台と書かれていることに注目していただ
きたいと思います。
岩や石を据えるには、土台が必要ですよね。
そして、その土台とは、キリストのことを言われています。

同じクリスチャンと言われていても、その土台は、人それぞれです。
そして、何を土台にしていくのかによって、死後の結論は大きく異なります。
なぜかというと、聖書には、以下のように書かれているからです。

参照 Ⅰコリント3:10-17

3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの
人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなけれ
ばなりません。
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない
からです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、
その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐ
るようにして助かります。
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのです
か。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだ
からです。あなたがたがその神殿です。

キリストを土台した歩み、すなわち、御言葉に堅くとどまる歩みに御心があることを言われている
のです。
ちなみに旧約で言われているレビ人とは、新約で言う弟子に相当する人のことを言われていて、レ
ビというのは、くっつくという意味合いがあります。
つまり、12弟子のように、寝食をキリストと共にする歩みをする人に神様は目をとめておられるの
です。
具体的には、常に、祈り、御言葉に触れ、神様の働きを担っていく歩みです。
このことを忠実に行っていく人が神様に訓練されている人と言えますし、そのように歩んでいく
と、自ずと御心を行うことにも通じていくのです。
御言葉を聞くだけでなく、実践し、キリストによって、揺るぐことのない信仰の土台を築いていき
たいと思います。
このことは、これから迎える背教や艱難時代の備えのためにも大いに有益になっていきますので、
ぜひ、そのような歩みを目指していきたいと思います。


つい2年前までは、群集の歩みにとどまっていました。
正直、群衆の歩みをしている時は、御言葉が何を語っているのか、ほとんど理解出来ませんでし
た。
また、以前の私もそうであったように、多くのクリスチャンは、ある程度理解してから、献身しよ
うと思われていると思います。
しかし、後になって、理解したことですが、実際に弟子の歩みをしていく中で、主から教えられて
いくことを少しずつ体験していくようになりました。
ペテロやヤコブやヨハネも、すべてを把握してから主に従ったわけではなく、キリストに「私に従
ってきなさい」と言われて、すぐに網を捨てて、主に従いました。
このことから、まず、従っていくことを主に表明していくことが、とても大切であることを改めて
理解しました。

弟子の歩みを選択してからすでに1年半が経過しましたが、以前に比べて、神様のことを更に身近に
感じられるようになりました。
御言葉の奥義や譬えの意味合いについても、少しずつ教えていただいています。
まだまだ不従順な部分も多々ありますが、日々の歩みにおいて訓練され、主の前に不動の者とな
り、御国を受け継ぐ者になっていかれたらなぁと思っています。

 

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