ヨハネ14:21

聖書箇所 ヨハネ14:21

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

ここでイエス様は神様の戒めを守る人がイエス様に愛されるということについて言われています。

クリスチャンであれば、誰しもが戒めを守っているかのように思われます。

このメッセージを読まれているあなたが、そのことを実践されていらっしゃるのでしたら、それは素晴らしいことです。

ぜひ、それは、続けていかれることをおすすめします。

しかし、12弟子のうちの一人(イスカリオテのユダ)がイエス様を裏切ったように、すべてのクリスチャンが戒めを守っているのかというと、そうではないように思います。

イエス様が「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」と、あえて言われているということは、そうではない人がいる、もっと言うなら、守る人のほうが断然少ないと理解するのが正しいのではないかと思います。

昨今、人は神様から愛されている、愛されて当然というような風潮がキリスト教界には見受けられます。

神様は無条件に、一方的にいつも私たちを愛してくださるお方、罪を犯し続けても神様は愛だからどこまでも赦すお方であると・・・

神様が愛の方であることは正しいことです。

しかし、無条件に愛されるのかというと、上記御言葉を読むと、それは違うように思います。

「戒めを保ち、それを守る人はわたしを愛する人です」という言葉に引き続いて「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し・・・」と言われています。

この言葉を皆さんはどのようにとらえるでしょうか。

少なくとも、私の場合、人がどんな状態であっても、たとえば神様を愛さない人や戒めを守らない人が、神様に愛されているというふうにはどうしても読めません。

確かに、救いは無条件に与えられています。

イエス様は、すべての人の罪のために十字架にかかり、死んでくださり、三日目によみがえられました。

このことを信じて心に受け入れて口でイエス様が主であることを告白するならば救われます。

聖書にもそのように書かれています。

今更あえて申し上げるまでもありませんが、なぜ、救いが無条件なのかというと、まずは救われなければ、クリスチャンとしての歩みはスタートできないからです。

しかし、スタートしたからと言って、神様に愛されるのかというと、それは、また、別だということを正しくご理解ください。

かつての私もその一人だったので、偉そうなことを申し上げられるような立場ではないのですが、そのことについて多くのクリスチャンが誤解をしているからです。

信じさえすれば、洗礼を受ければ、毎週礼拝に行って奉仕していれば、愛されていると勘違いしているクリスチャンが多いのではないでしょうか。

イエス様を信じて洗礼を受けること、礼拝に行くこと、奉仕をすること、いずれもそれ自体は神様の目の前にとても尊いことです。

でも、神様の戒めを守らないのなら、それらのものはすべて空しいものになってしまいます。

礼拝に行き、メッセージを聞き、「ああ、とてもいい話だったー」で、終わってしまうのでは、残念ながら神様を喜ばすことは出来ません。

せっかくの休みの日に早起きをして教会に行っても全く意味がなくなってしまいます。

重ねて申し上げるように、戒めを守る人、具体的には御言葉を実践する人、御心を行う人が神様に愛される人だということを、正しくご理解ください。

ことばは神であるといわれているように、御言葉を尊重していくことが神様を愛するということにつながるのです。

私たちが神様を愛するなら神様から愛されるわけですが、もし反対に戒めを守らないのなら、神様に愛されないのということを正しくご理解くださいますように。

神様から愛されないということは、神様に受け入れられないということですので、いくらクリスチャンと称していても、残念ながら永遠の命には至りません。

たとえ、キリスト教界や周囲のクリスチャンが「いや、クリスチャンと名が付けば、皆天国へ連れて行ってくれる!」と、いくら豪語していてもそのことを信じてはいけません。

上記御言葉はそのことを証していますし、このことは賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話にも通じることだからです。

クリスチャンはキリストの花嫁にたとえられていますが、必ずしもすべてのクリスチャンがキリストの花嫁になるわけではなく、キリストに愛されていないクリスチャンは5人の愚かな花嫁のように、再臨の日に花婿であるイエス様から「知らない」と退けられてしまいます。

御言葉が言うことが、どこまでも正しいのです。

私たちは自分勝手に御言葉を曲げてはいけません。

今の時代、聖書に書かれていない教理が講壇で堂々と語られています。

Ex:艱難前携挙、セカンドチャンス、クリスチャンは裁かれない、地獄は無い等

聖書がどのように語っているのか、聞く事柄について、一つ一つ御言葉と照らし合わせて正しく吟味しなければいけません。

もし、間違えたことを受け入れ続けていくなら、御心からズレた歩みに入ってしまいます。

御言葉はどのようにいわれているのか、きちんと理解しないと、いつになっても神様の御心を行うことが出来ないからです。

本日のポイントをまとめます。

戒めを守る人、どこまでも御言葉にとどまる人が神様から愛され、天の御国を受け継ぎます。

すぐに実践できなくても、聖霊の助けと導きを祈り求めていくことに御心があります。

御言葉を知っているだけでは、命への道には至らないことについても正しくご理解ください。

御言葉を守る人に神様の栄光があらわされると書かれているように、実践していく人に恵みや祝福があります。

しかし、今の時代、世の終わりというのは多くのクリスチャンがキリストの十字架を敵としているため、クリスチャンがますます御言葉を守らない方向に進んでいます。

ゆえに、御言葉を守っていくということは困難であったり、狭い道であったりするので、自覚と覚悟を要するということについてもご理解ください。

場合によっては人からは変な目で見られたり迫害を受けたりもします。

しかし、そうではあっても、きちんと御言葉を守っていく人にポイントがあり、そのような人は試練や困難の中にあっても、神様から助けや守りが与えられます。

また、守られるだけではなく、多くの義の実を結ばせていきます。

御言葉を単に知識として知っているだけで終わるのではなく、ぜひ行っていきたいと思います。

戒めを守ること、御言葉にとどまるということは、世の考えとは間逆のことばかりですので、ある意味、とても力のいることです。

人の力や考えで実行できるものではありません。

そのために、日頃の歩みにおいて、聖書に書かれている戒めやおきてをきちんと学び、実践できるように祈り求めていきたいと思います。

そのことを繰り返していく中で、人間的には特別な努力をしなくても、自ずと戒めを守るように変えられていきますので信じて実践していきたいと思います。

そしてこの世において神様から愛される人となり、後の世においては主からの誉れを受けたいと思います。

何度も証をしているように、私は弟子の歩みをしている一人です。

弟子として歩みはじめた頃は、そんな風に思わなかったのですが、クリスチャンは明らかに弟子として歩んでいくことにポイントがあるということを2年以上経てしみじみ痛感しています。

上記メッセージで、どこまでも御言葉にとどまる歩みが大切であることについて書いていく中で、私自身も改めて教えられましたが、御言葉にとどまる=主の弟子として歩んでいくことなのではないかというふうに、ますます確信を抱くようになりました。

一日の祈りの時間は○時間、聖書は○章、訓練は○○・・・と、弟子の歩みとして日々こなしていく課題はありますが、それはあくまでもひとつの目安にしか過ぎません。

もちろん、最低限しなければならない訓練は行っていかなければいけません。

でも大切なのは、これらの訓練を行っているからあの人は忠実であるという人からの評価ではなく、たとえ誰からも認められなくても、究極、イエス様だけに認められる弟子となっていくことに価値があるのだと思います。

常に祈りと御言葉に触れている人、いつもイエス様の喜ばれることだけに配慮し、人間関係を含めて世のことにはほとんどとらわれず、時間も心もすべて捧げていく人が神様から弟子と見なされ、そのように歩んでいくならおのずと御言葉にとどまることにつながっていくのではないかと思います。

上記メッセージにもあるように御言葉にとどまるということは、世の方向とは反対のことなので、時として人からは後ろ指をさされたり、悪口雑言を言われたりもしますが、そのようなことを意に介さず、むしろそのことに甘んじてイエス様にとどまり続けていかれるようにこれからも祈りもとめていきたいと思います。

本日のメッセージを通して、そのような大切なことを改めて決意させていただき、感謝でした。

ヨハネ13:1

聖書箇所 ヨハネ13:1

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

世にいる自分のものとは弟子のことです。

その愛を残るところなく示されたとありますが、このことは何を言われているのでしょうか。

聖書に、たとえの意味合いを弟子に解き明かされたとあるのですが、弟子には必要なすべてのことを教えられたことを言われているのです。

新約聖書を読むと分かるのですが、至る箇所において、弟子と群集が対比されて書かれています。

クリスチャンというと人括り、1種類と思っておられる方が多いと思いますが、神様の目から見て、はっきりと区分されています。

その区分とは、イエス様に常時くっついた歩みをしているか否かです。

そして、歩みの結果によって、死後の行き先も二分します。

命の書に名前が記されていれば天の御国を受け継ぎますし、そうでなければ火の池です。

弟子には名前がありますが、群集には名前がありません。

最後まで弟子としてきちんと歩むなら御国を受け継ぎます。

(ただし、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは別です。)

そのことから、群集の歩みだと、残念ながら、御国を受け継げないことが理解できるのではないでしょうか。

以前申し上げたかも知れませんが、弟子として歩んでいくことが御国を相続する条件とも言えるのです。

さて、弟子として歩んでいくときに、あらゆる困難や試練を通ります。

見えない敵との戦いの連続だからです。

ゆえに、十字架を背負う歩みとも言えますが、そのようなことを承知の上で地上に生きながらえている間、12弟子がイエス様と寝食を共にしていたように、いつもイエス様のそばにいてお仕えしていくのです。

一見損のようにも思えますし、細くて狭い道ですが、最も安全な道といえます。

また、御心をきちんと行っていくときに、神様からのありとあらゆる助けも与えられていきます。

なおかつその延長線上には、永遠の命が約束されているのです。

ただし、真の弟子として歩むことがポイントです。

つまり、どこまでも、主への忠実さや服従が求められます。

人の目にはどのように見られようとも、神様の前に、弟子として認められることがとても大切です。

モーセが全家を通じて忠実であったようにすべてにおいて忠実に歩んでいくことが真の弟子といえるのではないかと思います。

イエス様を模範に、祈り、御言葉に絶えず触れていくこと、このことに徹していくことこそが、まさにそのような歩みに通じていくのではないでしょうか。

偉そうな言い方で恐縮ではありますが、この二点に徹していくときに、神様の御心を自ずと成していかれるようになります。

主の働きを担うこと、御心の歩みをしていくことにつながります。

また、はじめに申し上げたように、すべての必要なことや御言葉のたとえの意味合いについても示していただけます。

このことを信じて実践していく人は実態を見ますし、大いなる恵みや祝福を得ていきます。

私自身のことではありますが、このことに関連して少し証をさせていただきます。

最近、あることをきっかけに、そういった歩みに少しずつ入らせていただけるようになりました。

以前は身にふりかかってくる数々のことにとらわれてしまうことが多く、祈りや御言葉の読み込みに今ひとつ集中できていませんでした。

この世のことと神様のことは相反することについても再度考える機会が与えられ、この世における悩みや問題に束縛されてしまうことは明らかに御心に反していることを改めて理解しました。

もちろん地上で生かされている限り、そのようなことはつきものですので、全く考えないわけにはいかないのですが、そういうことについても、最も身近にいてくださるイエス様に委ねていくことが、ベストな解決方法であることを示され、そのためには、自分の思いや考えも含めてすべてのことを主に捧げられるように祈り求めていくことが大切なのではないかと思うようになりました。

先月行われたセミナーの時にも証をさせていただいたのですが、私は長年患っている病と問題を抱えていて、そのことで、かなりの間、振り回されていました。

でも、そのようなこともすべて主に捧げていこう、それよりも何よりも、自分自身を捧げていこうと決断し、ひたすら主に祈っていきました。

不思議なことに、それほど時をうつさずに、ありとあらゆる思い煩いから徐々に解放されるようになりました。

病に関しては完全に癒されたわけではありませんが、症状が少しずつ和らいできました。

また、たとえ症状が出ても、さほど気にならなくなりました。

身に起こる問題についてもあまり深刻に考えなくなりました。

問題については依然として変わらないのですが、心の内側は不思議なほどに平安で満たされています。

そして、何よりも、前とは比べられないほどに、お祈りや御言葉の読み込みに集中できるようになりました。

しかも、喜びと感謝と賛美のうちに日々そのことを成すことができるようになりました。

すべて聖霊が成してくださった御業ですし、これからもあらゆることについて捧げることができるように祈り求めていきたいと思いました。

神様の目から見ると捧げるべきものは山積みだと思いますが、その都度示されたことについて、聖霊の力によって捧げられていかれるようにこれからも祈り求めていきたいと思います。

そうしていく中で、真の弟子としてたてあげられていかれたらなぁと思います。

ぜひ、神様の前に、弟子と認められるように、歩んでいきたいと思います。

弟子とは名ばかりで、さほど群集と変わらない歩みをしているのであれば、残念ながら弟子とは見なされません。

イエス様の時代も、明らかに弟子と群集がはっきりと区分されていたように、今の時代も同様のことが言えると思います。

弟子として歩んでいくときに、その都度必要なことを神様は教えてくださいます。

真の教師はイエス様だなぁということも実感するようになっていきます。

今の終末の時代のおかしな教理や嘘、偽り、惑わす力からも守られていきます。

常に、光である真理だけを見上げて歩んでいかれるようになります。

もし、神様に弟子と認められるのなら、この時代の働きを担う器として、用いられていきます。

また、周囲のクリスチャンが義の道へと歩んでいかれるような手助けを成していかれるようになります。

群れの模範となっていかれるような歩みを目指し、イエス様が言われている働きを成していきたいと思います。

そして、後の日に神様からの誉れを受けていきたいと思います。

ヨハネ12:24,25

聖書箇所 ヨハネ12:24,25

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

この世において、肉体の命、こと、健康に関して配慮する人は多いと思います。

そういう私も多少なりとも健康には気遣っています。

お酒、煙草をはじめ、体に良くないと思うものは控えたり、極度の睡眠不足にならないように、夜更かしを控えたりします。

もちろん、人それぞれですので、健康に気遣うことに関しては、このことに限ってことではないと思います。

しかも、この世の価値観において、健康に気遣うということは、良いとされています。

特に日本のような国では、長寿となるために、健康であることは必須というような風潮は昔も今も変わらないように思います。

もちろん、そのこと自体は悪いことではないと思います。

しかし、聖書では、長寿がいいとか短命がダメということについては一言も書かれていません。

寿命に関しては、このように書かれています。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」

さて、ここに書かれている「死」という言葉に目を留めていただきたいと思います。

人間的に「死」というと、絶望的であったり、もう、お終いとそのようにとらえがちです。

しかし、聖書においての「死」は、神様の目では決してマイナスではないということです。

このことは第一義的にはイエス様が十字架につけられたように、殉教、すなわち、肉体の死についても意味しますが、ここでは霊的な死のことについても言われています。

「霊的な死」って何なの?と、思われるかも知れません。

逆説的に言うと、霊的に生きること、つまり、肉の思いや考えに死ぬことです。

さらに分かりやすく言うと、自分の思いや考えや願い、そのことよりも、神様の言われることを最優先させて歩んでいくということです。

もし、そのような歩みを選択していくなら、24節に書かれているように豊かな実を確実に結ぶのです。

つまり、その歩みに準じて歩む人々を生み出すことができるのです。

ところで、昨今多くのクリスチャンが本来の召しから遠ざかっているように思います。

ここで少しクリスチャンのなすべき働きについて考えてみたいと思います。

一言で言うと、クリスチャンとは、キリストの奴隷であります。

もし、キリストの奴隷になっているのなら、キリストに続く歩み、分かりやすくいうと、キリストの足跡を踏むような歩みをしていくべきなのです。

さて、イエス・キリストはどのような歩みをされていたのでしょうか。

イエス様は、3年半の公生涯の中で滅び行くクリスチャン、背信のクリスチャンに対して、御言葉に立ち返るように、主の道をまっすぐに歩むように、呼びかけていました。

それと同時に、教会の土台となっていく弟子を育成されました。

Ex:ペテロ、ヨハネ、ヤコブ

ペテロ(岩)を土台に教会をたてあげようとイエス様がそのように言われました。

そして、イエス様に訓練された弟子たちがイエス様昇天されてからも働きを担いました。

使徒の働きを読むと分かるのですが、イエス様のことを3度否定したペテロが、多くの会衆の前でメッセージをしました。

その当時、ユダヤ人、つまりクリスチャンの間において、ナザレのイエスを信じる者は異端者扱いをされていたさなかに、「イエス・キリストの御名だけに救いがある」ということを堂々と宣べ伝えたのです。

この働きはいつも円滑になされていたわけではなく、働きのためにはむしろ、多くの妨害がありました。

時として、とらえられたり、獄に入れられたりして、肉体の命はいつも危険にさらされていた状態でした。

しかし、それにもかかわらず、ペテロをはじめ、主に仕える弟子たちはイエス・キリストの救いについてきちんと伝えました。

時として暴動も起こりました、ゆえに、正しい教えに大半の人が反論していたということが理解できます。

しかし、反論を受けながらも、わずかでもこのことを信じて救われる人のために大胆にメッセージをしたのです。

彼らの働きは、常に死との背中合わせであったことが理解できると思います。

まさに、命がけの戦いであったと思います。

そして、このことは、今の新約の終わりを生きる私たちにも当てはまります。

残念ながら、今の時代、多くの人が嘘、偽りの教えを喜んで受け入れている時代です。

Ex:レフトビハインドをはじめとする艱難前携挙説、悪霊のリバイバル集会(トロントブレッシング)、エキメニュカル、地獄は無いとかセカンドチャンス等

下記御言葉がそのことを成就していると思います。

Ⅱテモテ4:3,4

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせずに、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話に入っていく時代になるからです。

ゆえに、今の時代も正しい教えは、人々から嫌がられます。

神様を知らない未信者にもそうかも知れませんが、神様を信じるクリスチャンであっても大半の人が御言葉に沿って語る教えを嫌がります。

ある意味、真理を伝えることは命がけの戦いだということです。

でも、御言葉からズレたメッセージは、神様の前に全くポイントがありません。

たとえばクリスチャンになってしまえば、決して裁かれることはないなどの教えは、人受けは良いかもしれませんが、それは人からの誉れを受けるため、つまり25節に書かれているように自分のいのちを愛するだけのことに過ぎないからです。

それでは、人を命に導くことは出来ません。

そして、そのようなことを悔い改めならなら、後の世において、神様の御怒りを招くことになってしまいます。

この地上においては、多少の困難があっても、最悪、福音のために肉体の命を失うことになったとしても、神の愛だけでなく、裁きや悔い改めのこと等、御言葉に準じてきちんとメッセージを語っていくのなら、後の世において、大いなる報いを受けることにつながります。

そして、そのようなメッセージこそが人を命の道へと導くのです。

「主の御言葉は私を生かし、私を導き、私を照らす、主の御言葉は力がある、私を励まし・・・」という歌があります。

御言葉だけが、人を生かし、命を与えるのです。

すべての御言葉は純粋です。

しかし、どのように語るかによって、あるいはどのようなものを受けるかによって、死後の行き先が全く異なることを、どうか正しくご理解いただきたいと思います。

地上の命も大切かもしれませんし、人から良く思われたいと誰しもが思うかもしれません。

しかし、御言葉はどのように語っているのかについて、神様にたずね、聖書の御言葉から正しい教えを受け、ありのままを語っていく人に御心があります。

人がたとえ全世界を得ても永遠の命を失ったら、何の得がありましょうとイエス様が言われた言葉を真剣にとらえていきたいと思います。

肉体の命に執着するあまり、迫害や試練や困難や殉教を恐れて、最も大切な永遠の命を失うことがないようにしたいと思います。

この地上の価値観はともかく、聖書では明らかに後の世(死後)においての行き先が大切であることについて何度も何度も繰り返し語られているからです。

狭い門、細い道と言われているように永遠の命を得ることは決してたやすいことではありませんし、それなりに労苦はつきものです。

でも、この地上のことはずっと続くわけではありませんし、永遠という視点からこの地上のことを見るなら、ほんのわずかにもならないような期間だということを認識されることをおすすめします。

ゆえに、目に見える一時的な人からの誉れとかにとらわれず、いつも神様の御顔を仰ぎ見て、永遠の悔いを残すことのないように、御言葉が語っていることをそのまま語り続けていきたいと思います。

そのことは、後の世において誉れを受けるだけでなく、地上においても勝利者となっていかれます。

ひたすらそのような歩みにとどまり、その延長線上において永遠の命をぜひ得たいと思います。

何度か申し上げているかもしれませんが、レムナントキリスト教会の召しは「警告」です。

警告とは、注意を与えるものですので、人の耳には決してよいことはありません。

当然のことながら、カルト扱いされたり、人から後ろ指をさされたりするような働きです。

今は、天地創造のときから数えると7つめのミレニアムのときです。

詳細については今は書きませんが、7年目の時というのは、教理が曲げられるので、救いが非常に危なくなります。

救いに関して、緊急事態が起きているので、そのことについて、角笛(ラッパ)を吹き鳴らしています。

耳を傾けるか否かは個々の人の問題として、言われていることを行いなさいという神様の語りかけを受けているので、今の時代、神様が語られていることについて宣べつたえています。

かつての私もそのひとりでしたが、残念ながら、多くの人が嘘・偽りの教理を喜んでいるので、神様の裁きのことについて語ってもなかなか耳を貸してくださる人はほとんどいません。

でも、すべての人がそうなのではなく、少数であっても、きちんと聞いてくださる方もおられます。

先日、教会では修養会を兼ねたセミナーを行いましたが、感謝なことにほとんどの方が喜んでくださいました。

そのように真理を求めておられる方や、受け入れてくださる方のために、今後も主に期待して喜びと感謝の中で、このような尊い働きにわずかでも携わっていかれたらと思います。

背教がすすむにつれて、人から迫害を受けたり、最悪とらえられたりして人間的には不利であったり困難な状況に置かれることもあるかもしれませんが、そういったことにも耐えられるように、日々、弟子の訓練をして備えをしていかれたらなぁと思います。

ヨハネ11:1-4

聖書箇所 ヨハネ11:1-4

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」

ヨハネ11:25

この御言葉は、かなり有名です。

特にイースターを通して、ご存知のお方が多いのではないかと思います。

さて、本日の箇所では何を言われているのでしょうか。

同章の25節の御言葉と関連付けながらみていきたいと思います。

4節を読むと分かるように神の子であるイエス様は色々な方法を通してご自身の栄光や御業をあらわされました。

それは神様の御業を通して一人でも多くの人がイエス・キリストのことを信じるためであります。

「多くの人」と表現しましたが、これはクリスチャンのことを指します。

「ええっー、どうして?クリスチャンならみんなイエス様のこと、信じているでしょう」と言われるかも知れません。

確かに、そうかも知れません。

でも、少し考えていただきたいのです。

信じると言っても、一様ではないことをご理解いただきたいと思います。

ここで聖書が言われる真に御言葉を信じている人についてご一緒に考えてみたいと思います。

クリスチャンはイエス様が神様のひとり子であり救い主であることを御存知です。

しかし、イエス様のことを信じるのと知っているのとでは、少し意味合いが異なります。

実は、多くの人が信じているようでいて、その実、そうではないのです。

なぜ、そのようなことが言えるのかというと・・・

今の時代の多くのクリスチャンは聖書を読んでいますし、御言葉を知っています。

でも、実践しているかというと・・・

ずばり言ってしまうと???です。

たとえば、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」と、聖書に書かれていても、平不満をしょっちゅう言っているクリスチャンは案外多いように思います。

何一つ実践していないとは申し上げませんが、御言葉を実践しようと神様に祈り求めている人は非常に少ないように思います。

確かに、御言葉を知ることは大切なことです。

しかし、御言葉というのは実践してみてはじめて効力を発揮するものです。

分かりやすく言うと、その人の内側に生きて働くものになります。

聖霊の力を祈り求めて実践していく中で、御言葉の意味を理解し、信じて心に受け入れていくようになります。

そして、そのことを何度も繰り返し行っていくうちに、神様の律法が心の板に刻まれていくのです。

逆説的に申し上げると信じて受け入れている人は、自ずと御言葉を実践していく人に日々造りかえられていくわけです。

しかし、そうではないのなら、キリストを知ってはいても、信じていることにはならないのです。

さて、上記の御言葉の中には「死」とか「病気」という言葉が出てきます。

生きていると時折私たちは体調を崩し風邪をはじめ、病気になったりします。

そして、最悪、死に至ってしまうことがあります。

しかし、このことはあくまでも肉体のことにかかわることです。

聖書では、もう一面のこと、つまり霊的なことについても言われていることに目を留めていただきたいと思います。

そしてむしろこのことに比重が置かれていることについて正しくご理解ください。

なぜかというと、たとえ肉体が朽ちてしまっても霊は永遠に生かされるものであり、地上でどのように歩んだかによって霊の行き先が永遠に決定付けられてしまうからです。

行き先について、今更言うまでもないかもしれませんが、天の御国か火の池のどちらかです。

今まで何度かこのことについて語らせていただきましたが、私たちは天の御国を受け継ぐように、神様から創造されました。

参照 ヨハネ 3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

話は元に戻しますが、霊的に死んでしまうことについてどのようなことを言われているのか、考えてみたいと思います。

霊的に死んでいるとは、罪に入ってしまっていることを指します。

人の陰口を言ったり、万引きをしたりするのも罪ですが、罪とは「的外れ」という意味合いもあります。

もし、私たちが、あまりにも的外れな歩みをしていると、やがて、霊的に枯渇してしまいます。

では、なぜ、的外れになってしまうのでしょうか。

はっきり言います。

それは、信仰を持っていても、キリストから離れてしまっているからです。

さきほど話をしましたように、御言葉を知ってはいても、実践していないからです。

教会に行き、礼拝を捧げ、奉仕をしていても、何かが違うとか霊的に満たされないと思われておられましたら、要注意です。

いくら一生懸命行っていても、御心の働きからズレていたら、残念ながら何も実を結ぶことはありません。

それでは、その原因について、調べていきたいと思います。

私たちの歩みや神様の働きは、「油」と密接な関係があります。

油とは、御霊の油注ぎとも言われている聖霊の力のことです。

聖霊がその人の内側で働くか否かによって歩みや担っている働きの結果は全く異なります。

また、聖霊の働きは、祈りに関係します。

つまり、祈り求めていかない聖霊の力は与えられないのです。

祈りを実践しているかどうかが、霊的に生かされるのか、死んでしまうのか、はたまた、御心をおさえた働きをしていくのか否かに分かれるのです。

かつての私もその一人だったので、偉そうなことは申し上げられないのですが、このことを理解していないクリスチャンが多いのではないかと思います。

信仰を持って歩み、神様の働きを担っていく、それ自体はとても尊いことです。

しかし、それが人間的なものや人の思いや考えで築いていくものであれば、空しいのです。

本人が身を粉にしてあくせく頑張っていても、残念ながら神様の前には死んだも同然でしかないのです。

反対に聖霊の働きを祈り求めて行った働きは何らかの方法で実を結んだり、神様の前に残る働きになっていきます。

また、聖書の御言葉を正しく理解できるようにもなります。

御言葉を正しく理解することによっても、神様の御心を行うことにそのままつながります。

聖霊の油は、私たちが真剣に求めていくことによって、イエス様が無限にお与えになります。

このことを信じて祈り求めていかれることをぜひおすすめします。

また、私たちは、もともとの罪「原罪」があるゆえに、日々、罪を犯してしまいます。

そして、いつの間にか、罪に浸り続けてしまい、自分ではどうにもならない状態にまで陥ってしまうこともあります。

しかし、唯一、聖霊の力だけが、そのような罪の力からも解放してくださいます。

4節に「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と書かれているように、たとえどんな罪の中にいても、聖霊の力が働くときに、罪から解放されていきます。

そしてこのことは神様の栄光を見事に反映させます。

ただし、このことも祈り求めていくことが必須です。

罪は、私たちが思っている以上にとてもしつこいものだからです。

敵であるサタンは、絶えず、私たちを世に引っ張り込もうと、罪の支配から脱出させないようにと仕向けてくるからです。

敵は、私たちが悔い改めることを非常に嫌がるのです。

なぜかというと、私たちをいつまでも罪の中にとどめ、そして最終的には永遠の命を奪うことを目的としているからです。

つまり、ちょっとやそっと祈ったぐらいでは、なかなか離れならないことをご理解ください。

「罪から解放された!イエス様が勝利を取ってくださった!」と、確信が持てるまで祈り続けることをおすすめします。

もし、自分の力ではどうにもならない罪に束縛されていましたら、即、実践されることをおすすめします。

神様は誠実なお方です。

どんな罪を犯していても、私たちが心から悔い改めていくなら、必ず助けてくださいます。

霊的な病や罪、これらのものは、肉体の病気と違って、目に見えるものではありません。

しかし、このことを放置しておくことは御心ではないことをご理解ください。

最悪、永遠の命を失うことになってしまいます。

また、私たちのもともとの性質は神様に反逆しやすい者であるということも正しく認識してください。

霊的に非常に病みやすいということ、つまり、神様の前には病人であることを素直に認め、何をするにしても聖霊の力を祈り求めていきたいと思います。

もし、少しでも傲慢になって、自分はどこも問題は無い、何も悪くない、完璧であるという思いになったら要注意です。

逆に、そこから、様々な霊的な病や問題を引き起こしてしまいます。

そして、悔い改めていかないなら、最悪、滅んでしまいます。

単に肉体が滅びるだけならよいのですが、霊的な滅びの行き先は「火の池」です。

ぜひ、私たちのすべての罪のために死んでくださったイエス様を恐れかしこんで、神様の御声に聞き従って歩み、後の世において勝利の栄冠を受けていきたいと思います。


上記御言葉は、有名な箇所です。

イエス様は死人(罪人)を生かしてくださるお方であることは、真のことだなぁと、私自身も日々の歩みの中で体験させていただいています。

私も、しょっちゅう罪を犯してしまい、神様との間に平安を失うことが多々あるからです。

そのたびに下記御言葉を思い出します。

「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」

申命記30:19

悔い改めないと、大変だぁ、呪いに入っていってしまう!・・・

そのような危機感を覚えてから、ようやく、罪からの解放、悔い改めへのお祈りをします。

また、自分の力では対処に及ばないような罪についても、信仰を持って祈り求めました。

先のメッセージでも語らせていただいたように、罪はとてもしつこく、なかなか自分の思いから離れずに、しばらくの間、苦しんだこともあります。

でも、数日、数ヶ月・・・と、あきらめずに、祈り続けました。

その結果、神様の不思議な方法で、徐々に解放されていくようになりました。

私の心の内側には根をおろしている罪がまだまだありますが、イエス様がどんな罪からも必ず解放してくださることを信じてこれからも祈っていきたいと思います。

また、今まで、助けを求めるまで時間がかかっていましたが、上記メッセージにもあるように、罪を示された時点で、即実行に移していかれたらなぁと思います。

「罪」というと、聞こえはよくありませんが、罪から解放されること、これこそが神様の栄光をもっともあらわしているのではないかなぁと、自分自身を通して、最近つくづく感じています。

本日の箇所を通して、罪を素直に認め、悔い改めていくことの大切さについても改めて教えられ、感謝でした。

聖書の御言葉から教えられたことヨハネ10:16

10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

「この囲い」とは、イエス・キリストのことです。

羊とは、皆さんも御存知のように、クリスチャンのたとえです。

「この囲いに属するクリスチャン」とは、ひたすら、聖霊の力に頼って歩んでいくクリスチャンのことを言います。

しかし、主はここで、「主の囲いに属さないクリスチャン」について言われており、そして、その人たちのこともご自身のところに引き寄せなければならないと語られています。

以前の私もそうだったのですが、クリスチャンというと一括り、すなわち一種類であり、すべてのクリスチャンがイエス・キリストに属していると思っていました。

でも、本日のこの箇所を読むと、キリストに属さないクリスチャンがいることが理解できますよね。

このことは、神様の前にどのような区分をもたらすのか、そのことに触れながら神様が私たちに語っておられることをみていきたいと思います。

イエス様が言われた「彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」の言葉に語りかけを受けます。

世界には約20億人のクリスチャンがいます。

大きく分けると、カソリック、プロテスタントです。

更に、教団・教派に分かれます。

しかし、この世界をはじめ教会を統治されているのはイエス・キリストです。

イエス・キリストが教会の王であり、私たちの真の牧者です。

私たちが歩んでいくときに、常にこの視点に立っていかないと、ありとあらゆる混乱を招きます。

各教会にはそれぞれ、牧師、教師、指導者が配置されています。

いずれも主によって立てられた権威なので、これらの権威に従うことも大切なことです。

しかし、「わたしの声に聞き従い」と書かれているように、まずはイエス様の声に聞き従うことを最優先させることが大切です。

イエス様の声とは御言葉に従うという意味合いです。

そうすることによって、イエス様が牧会する群れに属し、その一員として、イエス様がなさったような働きに入っていくのです。

さて、「この囲いに属さない羊」、このことに目を留めていきたいと思います。

これは、とても大変なことです。

何が、大変なのかというと、クリスチャンと称しながらも、実質はイエス様がおられる場所ではない別の場所にいるからです。

「エエーッ、そんなことない、私の天の父はイエス様だし、私はイエス様の花嫁よ!」と、おっしゃるかも知れません。

本当にそうならよいのです。

しかし、必ずしも、そうではない人もおられますので、話を続けます。

参考になるかどうか分かりませんが、少し証をさせていただきます。

レムナントキリスト教会に行く以前、私は女性牧師が牧会する教会で、普通の信者としての信仰生活を送っていました。

いわば、群集の歩みです。

それはさておき、その当初は、弟子の歩みをしている今と比べると、とてもいい加減な信仰生活でした。

何がいい加減だったかというと、祈りにしても御言葉の読み込みにしても、とても表面的なものでした。

それでも、当時は、自分なりに一生懸命行っていたつもりでした。

でも、何か収穫があったかというと・・・

何ひとつと言ってよいほどに、実を結ぶことはありませんでした。

まさにその事実が、神様の御心からほど遠い歩みをしていたか、証明されます。

当時の私は未信者向けへの救霊の働きに一心に励んでいました。

このことは、人間的に考えると決して悪いことのようには思えませんでした。

パウロも異邦人のところに遣わされて福音を語ったことも事実だからです。

しかし、聖書をきちんと読むと、パウロははじめからそうしたわけではないことが理解できます。

まずは神様を信じるユダヤ人に神様はパウロを通して再三悔い改めを呼びかけました。

しかし、彼らは最後まで心をかたくなにして、福音を退けてしまいました。

そこで、仕方なく・・・と、申し上げたら御幣があるかも知れませんが、異邦人に宣べ伝えにいくことになったわけです。

このことはレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージで学んだことですが、神様はとても義理堅いお方であって、順番をきちんと守ってくださるとのことです。

まずは私たちクリスチャンに福音を語ってくださり、その次に異邦人に語ってくださるのです。

もちろんケースバイケースではありますが、常に信者をさしおいて、未信者の人たちばかり優先して語ることは、ある意味神様の御心から外れた働きだったということを今となって理解するようになりました。

クリスチャンなんだから、救われているんだから、クリスチャン向けに何を語るのか?!と、おっしゃるかもしれません。

しかし、このことも後になって気づいたことですが、神様の目から見て、ほとんどのクリスチャンがまともに救われていないのが聖書の語られている事実です。

実際に、私もその一人でした。

詳細についてはここでは語りませんが、その当時は、そのことにも全く気がつきませんでした。

聖書の読み方についても、群衆の歩みにとどまっていたため、たとえの意味合いや御言葉の奥義を理解する力もありませんでしたし、そもそも聖書は未信者を含め、すべての人に書かれている書物であるというふうに誤解していました。

クリスチャン向けに書かれているものであることですら認識していなかったのです。

教会では、「神様を知らない人にイエス様のことを伝えていきましょう、未信者の人に伝道していくことこそ私たちクリスチャンの使命です」と、盛んに豪語していたので、そのことにも何の疑問も持つことはありませんでした。

今にして思うと、神様の御言葉よりも、牧師が語ることをはじめ、人が言うことを単に受け入れていた信仰に過ぎませんでした。

しかし、数年前に、あることをきっかけにエレミヤの部屋のホームページ出会うことができました。そこで、真理に触れ、数年間通っていた教会に別れを告げました。

そして、弟子の歩みをするようになり、以前の私は、まさに「主の囲いに属さないほかの羊」の一人だったというふうに、理解しました。

そのような私のことをイエス様が憐れみをもって、御自身の囲いにお招きくださいました。

偉そうなことは言えませんが、このことに感謝して、別の囲いにおられる一人でも多くのクリスチャンが主の囲いに来られるような働きをわずかでも担っていかれたらなぁと、何らかの方法でお手伝いさせていただけたらなぁと思っています。

以前の私のように、もし、この文章を読まれているあなたが、神様の言葉よりも、人の教えや考え、あるいは教理の本を優先して歩んでいるのでしたら、それはとても危険なことです。

なぜなら、そのようなことは混乱と混濁だけを単に招くものであって、いつまでも真理に到達しないからです。

もちろん、人が語ることが聖書の言われていることと完全に一致しているのであれば、全く問題はありません。

しかし、御言葉と人の語る言葉がぶつかるのであれば、ぜひ御言葉を優先してください。

また、人の言葉には間違える可能性があることも、どうかご理解ください。

ですので、はじめに申し上げたように、神様が何と語っておられるかを常に聞いてことが大切です。

祈りを通して聖霊の声を聞いて歩んでいくことに御心があります。

何にしてもきちんと祈っていくことがポイントです。

弟子の歩みをしていく中で教えられたことですが、常に御霊によって祈っていくこと、祈りながら御言葉を読むこと、神様の召命に従って歩んでいくこと、これらのことに徹していくことがキリストの囲いに属する羊と見なされていくのではないかと思います。

このことは、ある意味すべてを主に捧げて神様にお仕えしていくことに通じていきます。

献身の道を自ら選択していくときに、主の囲いに自ずと入っていかれるようになります。

そして結果として神様の栄光や御業をその都度見たり体験したりするようにもなっていきます。

もし、主の囲いに入っていないと思われましたら、ぜひ、主の囲いに入ることをおすすめします。

主の囲い以外の場所は、非常に危険です。

なぜかというと、この地上において、真にキリストにつながっていないなら、後の世において永遠に退けられてしまう可能性が大いにあり得るからです。

主に招かれましたら、ぜひ、その御声に素直に耳を傾けていきたいと思います。

御声に応答した結果、人から変に思われたり、迫害を受けたりすることもあり、必ずしも人間的には喜ばしいことばかりではないかもしれません。

聖書に書かれているように、キリストにあって苦しみを体験することにもなります。

しかし、たとえそうではあったとしても、後の世においていただく重い栄光とは取るに足らないものですので、ぜひ、そのような選択をされることをおすすめします。

ペテロやヨハネやヤコブをはじめとする12弟子のように、いつもイエス様と寝食を共にし、御国を受け継ぐにふさわしい歩みをしていきたいと思います。


聖書の御言葉から教えられたことヨハネ9:1-12

ヨハネ9:1-12

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」

9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。

9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」

9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。

この箇所を見る前に・・・

ヨハネの福音書9章ではイエス様が生まれつきの盲人を癒されたこと、そして、その人がなぜ見えるようになったのかについてパリサイ人が盲目だった人に何度も尋ねていました。

しかし、見えるようになったことについて同じことを繰り返し説明してもパリサイ人はそのことについてなかなか理解しませんでした。

そして、肉体の目は何の不自由も無いパリサイ人に対して、盲目であることをイエス様に言われてしまいました。

このことについて神様の私たちへの語りかけについてみていきたいと思います。

今更あえて説明するまでもありませんが、盲人とは目の見えない人のことです。

当然のことですが、目が見えないと日常生活を送るのも大変です。

触覚で形の判断は出来ても色を見分けることは不可能です。

実際にそうなってみないと分かりませんが、何かと不自由なことは多少なりとも想像できます。

さて、今まで何度か申し上げているように聖書はたとえの書です。

聖書はイエス様について証する書ですが、イエス様はたとえを用いてご自身のことを証されておられます。

そのまま文字通り理解する箇所もありますが、大半はたとえで語られています。

ですから、本日の箇所もたとえを理解しないとイエス様は単なる素晴らしい癒し主ということで話が完結してしまいます。

それでは聖書で言われている盲人について考えてみたいと思います。

盲人とは、霊的に正しく見えない人のことを言います。

具体的には聖書の御言葉を理解出来ない、ゆえに信仰の歩みが不安定であることを言います。

目が見えないということは真っ暗な中にいるので光が入ってこないわけですよね。

ちなみに聖書の御言葉の啓示は光が当てられてはじめて開かれるものです。

光とはイエス様のことを指します。

5節にあるように「私は世の光」と言われている通りです。

イエス様が私たちの心に触れてくださり、啓示を理解する力が与えられてはじめて御言葉を理解することが可能になるのです。

このことが霊的に見えることに通じるのです。

「生まれつきの盲人」という言葉にも着目してみたいと思います。

この世には目が見える人と見えない人がおられます。

しかし、信仰の世界については、私たちクリスチャンも、もともとは神様の前には盲人であることを理解してください。

さきほど申し上げたように、私立ちの生まれつきのもの、つまり人間的な考えや能力では、いつになっても真理である御言葉を正しく理解することは出来ないからです。

イエス様が憐れんでくださって、心を砕いてくださって、はじめて霊的に見ることや聞くことが出来るのです。

でも、このことはすべてのクリスチャンに当てはまるわけではありません。

心から真理を求めている人に神様はそのようにしてくださるのです。

残念ながらパリサイ人のように神様の前に心を堅く閉ざしている人は肉体の目に不自由は無くても霊的にはずっと盲目のままになってしまいます。

盲目であることを自ら謙遜になって受け止め、神様に祈り求めていく人を主が憐れんでくださり、この盲目の人に御業をあらわしてくださったように個々のクリスチャンにも成してくださるのです。

ですから、いつも神様の前にへりくだって霊的に盲目にならないように、惑わされないように祈り求めていくことに御心があります。

霊的に正しく真理が見えることはとても大切なことです。

そのことによって、闇を歩いているクリスチャンを光に導くことが可能となり、多くの義の実を結ばせていかれるようになります。

8節にも語りかけがあります。

「物乞い」という言葉についてみてみたいと思います。

物乞いをしていたということは、人々に施しを求めていたわけです。

さきほど申し上げたことと重複しますが、クリスチャンとして信仰の歩みが無かったのです。

なかなか霊的に満たされない、それゆえに聖会へ行ったり、信仰書を読んだりして、そのことを霊の糧としていました。

しかし、イエス様に触れていただき、霊的に見えるようになってからはそのような必要は一切なくなりました。

11節に「泥」とありますが、これは聖霊のことを指します。

聖霊に触れていただけるかどうか、つまり御霊の力によって歩むかどうかが、信仰の土台の形成につながることが理解できると思います。

6節にイエス様が泥を作られたとあります。

ちなみにイエス様は神様です。

そのことからも泥とは神様の力、すなわち聖霊であることを再認識できるかと思います。

イエス様が盲目の人に泥を塗られたとは、イエス様が直接その人に触れられたということです。

今までは霊的に見えなかったので真理を理解できなかった人が、結果として霊的に見えるようになり、自分自身で歩むことが出来るようになったことを言われているのです。

本日のポイントをまとめます。

霊的に盲目、見えないことはよいことではありません。

イエス様は私たちクリスチャンが霊的に見えるようになることを望んでおられます。

そして霊的に見えるということは真理の御言葉を正しく理解出来る、ゆえに神様の御心を行うことに通じていきます。

また、御言葉の表面の意味合いを知っているだけではダメなのです。

それは乳飲み子、つまり幼子の信仰なのです。

御言葉にもあるようにそれではいつまでたっても義の行いに通じていくことは不可能です。

つまり私たちはいつまでも乳飲み子であってはいけません。

天の御国を受け継ぐためには堅い食物を食べること、たとえの意味合いについて理解をしていく必要があります。

このことこそが信仰の成長を促し、神様の前に何が良いことであるかそうでないかの分別力が培われ神様の前に成人したクリスチャン、つまり大人のクリスチャンと見なされるのです。

主の前にへりくだり、霊的に見えるように祈り求め、幼子のようになって御言葉の意味合いを主にたずねていきたいと思います。

今は終末です。

世の終わりは嘘・偽り・惑わしがキリスト教界に蔓延することが聖書では前もって預言されています。

それと同時に正しく主に従う人は艱難時代を通過することについても書かれています。

そして、艱難の時に悲惨なのは身重の女、乳飲み子と言われています。

御言葉の奥義に通じていない人は艱難時代に正しく対応できないことを御理解ください。

そのようなことを回避するために、主の弟子の歩みに徹し、艱難時代に備えていくことをぜひおすすめいたします。

聖書にも主の日は近いとありますが、主の再臨に正しく備えていきたいと思います。

数年前、エレミヤの部屋のホームページを通して、自分自身が霊的に全く盲目であったことについて、主の憐れみによって理解することができ、そのことをきっかけに歩みを180度転換させることが出来ました。

まず、自分自身が盲目であることを主の前に認めることからはじまり、霊的に見えるようになりますようにというお祈りをするようになりました。

今でも、霊的に正しく見えるように、悟れるように、聞こえるようにというお祈りには度々導かれています。

もう、自分は絶対に大丈夫、何でも知っている、このような思いが最も危険なのではないでしょうか。

聖書には知らなければならないことすら知っていないと書かれています。

以前に比べて多少は霊的に見えるようにはなりましたが、それでも失敗を繰り返したり、惑わされてしまうことは多々あります。

でも、自分自身が惑わされやすい存在であること、無知な者であること、そのようなことを知ることができただけでも、幸いだと思っています。

どこまでも主の前にへりくだって、聖書の御言葉の意味合いを主にたずね、霊的に正しく見たり聞いたりできる歩みを目指していきたいと思います。


聖書のみ言葉 ヨハネ8:37-44

聖書箇所 ヨハネ8:37-44

8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。

8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」

8:39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。

8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。

8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」

8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。

8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

ここではクリスチャンでありながらもサタンを父としている人たちがいることについて書かれています。

一般的にクリスチャンと言われている人はすべてイエス・キリストを主としていると思われています。

かつての私もそう思っていた一人でした。

しかし聖書をよく読むと残念ながらそのようには語られていません。

上記箇所の御言葉ではそのことについて証しています。

順にみていきたいと思います。

37節

アブラハムの子孫とはクリスチャンのことを指すわけですが、そのクリスチャンがイエス様を殺そうとされていることについて主は語られています。

イエス様を殺そうとするとはどういうことでしょうか?

ここでわたしの言葉とありますが、このことはことばであった神という御言葉にそのまま通じることです。

つまり、御言葉に反逆するということです。

わたしのことばがあなたがたとうちにはいっていないというのは聖書に書かれている御言葉を受け入れないということです。

多くのクリスチャンは聖書の言葉を知っています。

それ自体、とても尊いことです。

でも、悪魔も神様を信じていますし恐れおののいています。

たとえ御言葉を知っていても、悪霊が信じている程度であったり実践しないのであれば何の効力も、もたらさないのが聖書の言葉であることをぜひ理解してください。

多くのクリスチャンが知ってはいても実践しないために、御言葉につまずいている、そして挙句の果てには正しく真理を語る人や行う人をさげすまし、結果としてはキリストである御言葉をないがしろにしている、そのようなことをこの箇所では言われているのではないでしょうか。

38-40節

ここでもイエス様は重ねて御自分を殺そうとされていることについて言われています。

クリスチャンであってもイエス様に仕えている人と悪魔に仕えている人とがいます。

この区分について言われているのですが悪魔を父としているクリスチャンは、このことについてなかなか理解しようとしていません。

悪魔を父としているとはどのようなことでしょうか。

聖書で言われている御言葉よりもキリスト教界で言われている教理を優先したり器(メッセンジャー、牧師、教師)の言うことをどこまでも盲信し、神様よりも器を拝み、それに仕えていく人たちのことを言っているのです。

また、聖霊の働きを祈り求めずに教理の本に走ったり、ろくに吟味もせずに悪霊を下すリバイバル聖会で霊的な飢えや渇きの満たしを求めに行ったりすることです。

クリスチャンの間ではこのようなことは今や常識とされています。

しかし残念ながらこういったことは混乱こそは招いても真理には程遠い道を歩んでいることになるのです。

そして当の本人はそのようなことを正しいとしているので御言葉に堅くつくクリスチャンを非難したり原理主義者扱いをしたり、カルトと呼ばわったりするのです。

そのようなことには全く御心はありません。

それどころか行き着く先は真っ暗な闇です。

もし、お心当たりが少しでもありましたら、光ではなく闇の中を歩んでいることをどうか自覚してください。

そしてすぐに方向を変えられることをおすすめいたします。

もし、この世で光の中を歩まないのでしたら、死後も当然のことながら、闇の中に入れられてしまいます。

なぜなら神様との和解が成立していないからです。

どうか、真の意味合いで、ただちに神様と和解をされてくださいますように。

そして、クリスチャンが入るべき天の御国を受け継ぐ歩みをされていかれますように。

41-44節

イエス様が悪魔を父としている人たちについて言われたことに対して、自分の父はアブラハムだ、ひとりの神がある、自分たちには何の誤りも無い!と、どこまでも自分たちの正しさについてアピールしています。

イエス様が言われていることについてどこまでも心を頑なにしています。

また、イエス様が神様から遣わされたお方であることを理解することが出来ません。

さて、彼らはどうしてイエス様が言われていることに耳を傾けることができないのでしょうか。

そして、なぜ、イエス様を神様のひとり子であることを理解できないのでしょうか。

そのことについて考えてみたいと思います。

このことは今の時代を生きるわたしたちへの予表でもあります。

ゆえに、このことについて今は再現している時とも言えます。

真理であるキリストを理解するためには「霊」が関係しています。

受けている霊によって、キリストを主とするのか、はたまたサタンを父とするのかに二分されます。

つまり、聖霊を受けるのか、悪霊を受けるのかによって御言葉であるキリストを正しく理解するのか否かにはじまり、その結果によっては死後の行き着く先も分けられてしまいます。

本人がいくら聖霊を受けていると言っても実態が問題です。

もし、艱難前携挙説やクリスチャンと名が付けば皆が天国等という教えをはじめとする嘘・偽りの教理にどこまでも従っていくのなら御言葉であるキリストを冒涜している歩みをしていることになります。

ゆえに、その人は悪霊に仕えているのです。

もし、聖霊を受けているのならイエス様の言われているすべての言葉を信じて受け入れることが出来ます。

そして47節にあるように神のことばに聞き従います。

と、言うよりも、喜んで従っていく人に変えられていくのです。

このことについて、イエス様の種まきのたとえ話を思い出してください。

良い地に御言葉が落ちた人について、このように言われています。

その人はよく耐え忍んで御言葉を実践して10倍、100倍の実を結ばせました。

ぜひ、そのような歩みを目指していきたいと思います。

常に聖霊の力を祈り求めていきたいと思います。

聖霊でない別の霊には全く御心がないことをどうか御理解ください。

そのような霊を受け続けていると正しいこととそうでないことの判断がいつまでたっても培われませんし、それに聞き従うなら滅んでしまいます。

クリスチャンは同じように聖書を読みメッセージを聞きます。

しかし、何度も申し上げるように結末は御言葉の聞き方や歩み方によってそれぞれ異なります。

背教が起こりたとえ多くのクリスチャンが信仰を捨てる時代に入っても、祈り、素直に御言葉に耳を傾け、最後までキリストの声に聞き従っていきたいと思います。

今、レムナントキリスト教会の午前の礼拝ではローマ人への手紙を学んでいます。

その中で、2種類のクリスチャンがいることについて教えられています。

イシマエル、イサク、ヤコブ、エサウのことが取り上げられたのですが、同じ親から生まれた兄弟であっても、長子の権利(天の御国)を受け継ぐことを選ぶ人とそうでない人とがいることについて教えられました。

このことは、わたしたち一人一人がどちらかを選んでいくこと、そして受け継ぐことを選択することは神様の召しに応答することであることも理解しました。

かつてのわたしは、自分がどこへ行くか分からない、いわば闇を歩いている者でした。

しかしあるときから主に光を当てられ主の弟子として歩んでいくことを決意しました。

そのときから、少しずつ神様が言われていることを理解するようになりました。

わずかながらも召しに従って応答して歩んでいくことによって一歩ずつステップを踏みながら主と共に歩んでいるなぁということを実感しています。

また、このことは自分にとって、これ以上無い恵みや平安に包まれています。

これからも聖霊の力を祈り求めつつ、少しでも御心にかなった歩みを目指していきたいと思います。

聖書の御言葉 ヨハネ7:16-18

聖書箇所 ヨハネ7:16-18

 

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

 

この前の節ではユダヤ人がイエスの教えに驚嘆していました。

それに対して16節でイエス様が彼らにはっきりと言われました。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」と。

このことは何を言われているのでしょうか。

わたしを遣わした方、つまり、神様からの教えだということをおっしゃっているのです。

イエス様は宮で教えておられました。

今で言う、教会で語る牧師やメッセンジャーと同じです。

メッセージを語るというのは神様の前に尊い働きです。

また、教会で語らなくとも、今の時代、インターネットや出版物等を通しても語る機会があります。

いずれも恵みや祝福にあずかる奉仕とも言えます。

しかし、そのためには条件があります。

神様の前に、正しく行うことです。

16節で言われているように神様が語っていることについて宣べ伝えていくことがポイントです。

 

さて、今、この文章を読まれているあなたにおたずねしたいことがあります。

もし、あなたがメッセンジャーの働きを何らかの方法で担っている(メッセージの訓練も含めて)としましたら・・・

メッセージ作成のために、どのようにされていらっしゃるでしょうか。

神様の語りかけを聞くために、祈り、御言葉を読み込んでいますでしょうか?

 

この地上には多くのメッセンジャー、いわば御言葉を取り次ぐ教師の立場の人がおられます。

話の上手な人もいればそうでもない人もいます。

でも、これは人間的な見方に過ぎません。

究極、死後、天の御国を受け継ぐのか、はたまた火の池に行くのか、いずれにしても二つに一つのように、メッセージも御霊の油注がれたものか否かに限ります。

分かりやすく言うなら、人からのものか神様からきたものなのかということです。

言うまでもありませんが、人からのものについては神様から拒否されてしまいます。

そのことについては18節の御言葉が証する通りです。

人の栄光には全く価値がありません。

私たちはいつも神様の栄光を求めていくべきです。

祈り、御言葉を通して神様の御声を聞いて御霊の力によって語っていくのなら神様からの教えを語っていくことに通じます。

そしてこのことは神様の栄光を見事に反映させます。

しかし、ろくに祈らずに御言葉にも触れないのなら・・・

的外れなことを語ってしまい、結果として受けるべき報酬は得られません。

たとえば、信じれば皆天国、クリスチャンは裁かれることはない、死後セカンドチャンスがあるとか、神様の愛ばかりを強調し、肝心な裁きのことについては語らない等。

たとえ人からは賞賛されたとしてもこのようなことには全く御心がないことをご理解ください。

また、聖書に書かれている御言葉よりも教理の本を優先して語ることもポイントからズレてしまいます。

なぜなら大半が合っていたとしても人の教えにはわずかでも間違いが入る可能性があるからです。

そしてほんの小さな誤りが・・・時には永遠の命を失う危険性もあるのでくれぐれも注意が必要です。

聖書ではパン種を用いてはいけないことについて度々語られています。

パン種とは「罪」を指します。

つまり、的外れなことを語るのはダメなのです。

繰り返すようですが、語る人はよく祈り、御言葉を繰り返し読んでいかなければならないのです。

また、語る側が正しく伝えることは大切なことなのですが、聞く人たちも正しく聞き分けなければいけません。

先ほども申し上げたようにどんなに素晴らしい器であっても、時折、間違えてしまうことはあるからです。

17節で言われているように神様からきた教えなのかどうか、一つ一つのことを吟味しながら聞いていくことが大切です。

聖霊から来たものであるのなら、真理を見出します。

しかしそうでないのなら真理ではない別のものをつかんでしまうことになります。

ですから、語る立場であっても聞く立場であっても神様からのものなのかそうでないのかについては絶えず見分けていくことが大切です。

時代を正しく見分けるなら・・・

今は残念ながら聖霊の働きが消えつつある時に入っています。

聖書(黙示録)で預言されているように、クリスチャンが信仰を捨て去り、キリストが戸の外に追い出されているような時代です。

それゆえに不法がはびこり、惑わす力が送り込まれているのが現状です。

闇の勢力が増し加わる中で、ますます嘘、偽りが繁盛し、そういった中で真理はかき消されていきます。

しかし、そういった中にあっても、17節にあるように、神様の御心を行う人は真理が消え去ることはありません。

御言葉を語る立場であれ教えを受ける立場であれ、きちんと神様の言われたことを守り行っていく人に御心があります。

その際には常日頃、祈りと御言葉に触れていくことです。

このことはキリストと寝食を共にしたペテロやヨハネをはじめとする12弟子の歩みにそのままつながっていきます。

神様が何を語っているのかを絶えず聞いていく人が神様の働き(メッセージ、預言をはじめ御言葉にかかわる働き)の中心を担っていきます。

そしてそのことを通して一人でも多くのクリスチャンが真理に立ち返っていかれるようになります。

聖書はイエス・キリストを証する書と言われているようにクリスチャンの働きはどこまでもキリストについて宣べ伝えていくことです。

メッセンジャーの皆さん、今一度、真の意味合いでキリストにつながっておられるかどうかを吟味されることをぜひおすすめします。

絶えず祈り、御言葉を通して神様が言われていることについて正しく語っていき、神様からの誉れを受けていきたいと思います。

 

私もメッセージを取り次ぐ者として、上記の教えは決して人事ではありません。

弟子の歩みの訓練を通して祈りと御言葉に触れることの大切さを最近更に痛切に感じています。

なぜかというと、一歩誤ると、呪いを受けてしまうからです。

特に教理にかかわることに関しては祈りの時間を費やすようになりました。

以前はメッセージ作成のために労していましたが、今は祈りに重点をおくようになりました。

毎週1章ずつメッセージを作成していますが、最低7回は祈りながらその箇所を読むようにしています。

はじめはさっぱり分からないのですが、祈り、御言葉に触れていく中で神様がはっきりと教えてくださることを実感しています。

また、メッセージのことに限らず、他の働きや歩みに関しても、神様に聞いていくときに不思議な方法で示しや導きが与えられていきます。

これからもどんなに小さなことについても祈りの中で神様に聞き、聖霊の力によって働きを成していかれたらと思います。

 

 

 

 

 

聖書の御言葉 ヨハネ6:53-66

聖書箇所 ヨハネ6:53-66

 

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。

6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――

6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 

上記御言葉に書かれているようにキリストの霊を受けることはクリスチャンの信仰生活の根幹にかかわる部分です。

しかし実際には多くのクリスチャンはキリストの霊を求めないのが現実です。

聖霊のみが真の意味合いで生かすはずなのに・・・

それにもかかわらずです。

ちなみにヨハネの福音書は「聖霊」のことを中心に書かれています。

聖霊とはどのような霊なのか?そして、聖霊を受けることの意味合いについてのべられています。

 

イエス様の時代の時にも、キリストに従う多くの弟子がいました。

しかし66節にあるように多くは離れ去っていきました。

ですから弟子といっても、残る弟子とそうでない弟子がいることが理解できます。

なぜ、多くの弟子は離れ去ってしまったのでしょうか。

答えは簡単です。

真の意味合いでイエス様のことを御存知なかったからです。

キリストの弟子とは御言葉にとどまる人のことを言います。

口先ではなく真にイエス様を愛しているかがポイントです。

神様の目から見てそれはどのような区分をもたらすのでしょうか。

これも実に単純です。

祈り、御言葉に触れているかどうかです。

今もキリストに従う弟子は沢山おられます。

しかし、弟子であってもキリストを失ってしまった人がいます。

残念ながらそのことは永遠の命には至りません。

そのような失敗に陥らないためにイエス様が求めておられる弟子について学んでいきたいと思います。

 

具体的なことについて触れてみたいと思います。

ここに書かれているように人の子の肉と血を食べたり飲んだりすることが永遠に生きるといわれています。

それでは、人の子の肉、血という言葉について着眼してみたいと思います。

人間的に考えると人の肉や血を食べるとか飲むというのは何とも気持ちの悪いことです。

しかし単にそのように読むのは愚かなことです。

なぜなら聖書はたとえの書だからです。

まず人の子とはイエス・キリストのことです。

肉とか血という言葉で何かを思い出しませんでしょうか。

このことは聖餐に通じることです。

 

参照 Ⅰコリント11:23-26

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

パンとはキリストの体、すなわち肉を言います。

パンは御言葉にたとえられていることから、肉も同じ意味合いです。

杯のことを「わたしの血」と言われていますが、これは「ぶどう酒」に通じる言葉です。

ぶどう酒は聖霊にたとえられています。

ゆえに血も、聖霊を意味します。

つまり、私たちが永遠に生きるためには、御言葉と聖霊とは切っても切り離せないのです。

この二つ抜きにキリストとの正しい関係はありえないことを御理解ください。

私たちは毎週ごとの礼拝で聖餐式を行います。

でも単にそれだけで終わるわけではありません。

毎日、主からの聖餐を受けなければならないのです。

なぜならこの世を支配しているのはサタンであり、聖霊に触れていないとあっという間に神様から離れてしまうからです。

そのことを回避していくには、弟子として歩んでいくことが必須であることを御理解くださいますように。

繰り返すようですが、いつも祈り御言葉に触れていくことです。

 

更に見ていきたいと思います。

その前に・・・

今、このメッセージを読まれているあなたが弟子の歩みをしていないなら、ただちに弟子の歩みをされることをおすすめします。

特別何も起きていなときには大きな問題はないのですが、試練や困難に遭遇したときに・・・

そのときになって信仰が覆されてしまい、結果としてキリストの再臨に正しく対応できなくなり、悪い意味合いで裁かれてしまうからです。

 

少し証をさせていただきます。

私自身、2年前までは群集の歩みをしていました。

その時は、イエス様を信じていればそれで良いと確信を持っていました。

それなりに祈り、聖書も読んでいたので、特別問題は無いと思っていました。

でも、そのことに徹していたかというと、それは別でした。

祈りの時間も不足していましたし、祈る内容についてもほとんど的外れなものばかりでした。

聖書の読み込みもポイントからズレていました。

さきほど申し上げたように聖書はたとえの書なのですが、文字通りにしか読んでいませんでした。

なので、読んでいても神様が言われていることについてほとんど理解することはありませんでした。

御心にかなった歩みとはほど遠いどころか全く方向がズレていました。

しかし、レムナントキリスト教会に導かれ弟子の歩みをはじめてから一変しました。

心の根底にあるものがひっくり返されるようになっていきました。

真理とはどのようなものであるのかについて少しずつ理解できるようになり、御心にかなう歩みや働きにも徐々に入っていかれるようになりました。

また、今の時代に起きていることや終末の特徴についても学ばせていただき、その中で具体的な再臨への備えもすすめられるようになりました。

祈りについても、御心の祈りとそうでない祈りについても教えられました。

聖書に「絶えず御霊によって祈りなさい」とあります。

以前はその意味が理解できませんでしたが、今では分かるようになりました。

確かに祈ってみないと御心なのかどうかは分からないことが多いのも事実ですが、繰り返し祈っていく中で御旨に叶うとりなしがどのようなものであるかについて理解するようになり、そのことを実践していく中で神様の栄光や御業を拝するようになりました。

弟子として歩んでいく時に歩みや働きに必要なすべてのことを教えていただけます。

主の弟子にとどまっていくなら、イエス様がすべての面において真の教師となってくださいます。

また、後ほどメッセージでも触れますが・・・

弟子としての歩みを徹していく時に人から嫌われたり後ろ指を指されてしまうことも事実です。

神様のことと、この世のこととは両立は残念ながら不可能だからです。

ここ2年間、御言葉に立って真実を何人かのクリスチャンに伝えました。

たとえば、人にではなく神様に頼ることや艱難前携挙説がおかしいことや時代が曲がっているゆえに正しく歩まないと滅んでしまう等・・・

私の言い方にも問題はあるのかも知れませんが、受け入れていただけず、挙句の果てにはそのようなことをきっかけにほとんどの人と仲たがいしてしまいました。

このことは人間的に考えると悲しいことではあります。

でも不思議なことに、霊的には感謝や喜びや平安に満たされています。

使徒たちも主の御名のゆえにはずかしめられることを喜びとしたということが聖書に書かれていますが、本当にそうなのです。

悪いことをしてその報いを受けるのは当然のことですが、御心に沿った歩みをして悲しむのなら幸いなことだと思いますし、これからもそのような歩みを目指していきたいと思います。

祈りや御言葉のために時間を割くようになり、聖霊にある喜びや平安に包まれ、勝ち得て余りある信仰生活を送らせていただいています。

以前からこういった歩みを求めていたのですが、このことを主が実現してくださっていることに日々、とても感謝しています。

 

話は御言葉に戻りますが・・・

主の弟子として最後まで残ることに御心があります。

そのことについて、いくつかポイントをまとめてみました。

終末は背教が起こり、多くの人が信仰を捨てるので、ある意味御言葉に堅く立っていくのは困難とも言えます。

しかし、そうではあってもキリストに従う人に御心があります。

困難なゆえに、人間的に不利なこともあると思います。

艱難時代に入ると更に理不尽に思えることばかりだと思います。

御言葉に従ったために人から迫害されたり悪口を言われたりカルト扱いされたりするかも知れません。

しかし、そのようなことを承知の上でキリストに従う人を神様は弟子として扱ってくださり、勝利を取らせてくださいます。

そのような人がキリストの勇士と見なされます。

一見多くのものを失うように見えても、周囲の状況に左右されずにキリストに従う人は苦難の時に守られます。

聖書の御言葉は私たちにとって必ずしも都合の良いものばかりではありません。

実際には従うことが困難なことのほうが多いのかも知れません。

でも、祈りを通して私たちがこのことに正面から向き合っていくのなら・・・

この世においても勝利者となり後の世においては神様から誉れを受けるようになります。

最近レムナントキリスト教会の礼拝ではローマ人への手紙について学んでいます。

その中で教えられたことがあります。

キリストと苦難を共に受ける人は主と共に栄光を受けるということです。

後の世において誉れを受けるわけですが、苦難を共にしていく時にこの世においても、私たちが神様の栄光を見られることが理解できると思います。

命に至る道は細いといわれているように真理の道は決して広くはありません。

この世においては苦難の連続かも知れません。

しかし、この箇所で言われているように、いつもキリストの肉である御言葉に堅くつき、血である聖霊の力を祈り求めてキリストに従い、後の世において朽ちることのない栄冠を受けていきたいと思います。

 

 

聖書のみ言葉 ヨハネ5:39,40

聖書箇所 ヨハネ5:39,40

 

5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 

クリスチャンであれば誰しもが一度は聖書を読んでおられると思います。

そして聖書は39節で言われているようにイエス・キリストを証する書です。

かつての自分自身を振り返っても人様のことをとやかく言える立場ではありませんが、ここでイエス様が言われているように実は多くのクリスチャンが聖書について正しい知識を持っていません。

単に正しい知識が無いことで終わるだけなら良いのですが、そのことについてイエス様はクリスチャン向けに警告をされています。

聖書=イエス・キリストなのですが御言葉に対して無知のゆえに多くの人は永遠の命を失うとここでは言われているのです。

 

イエス様のもとに行くことが永遠の命を得るための唯一の方法です。

しかし、昨今、聖書を読んでいても、御言葉とダイレクトに向き合っているクリスチャンは少数です。

 

そのことについてうまく伝えられるかどうか分かりませんが少し証をさせていただきます。

以前の私もそうでした。

毎日御言葉には触れていました。

しかし御言葉が信仰のベースになっていたかというとそうではありませんでした。

多少なりとも御言葉は重んじてはいるものの、実際はキリスト教書店に出回っている教理の本を土台に歩んでいました。

それはそれでその時は納得していました。

そこから励ましや慰めを得ることも多くありました。

しかし、試練・困難が来たときに・・・

その都度、それに見合った教理の本を探さなくてはならない、そしてそれらのものは根本的な解決に至らないことに徐々に気づくようになりました。

そして、人は人、必ずしも人の証が自分の信仰生活に当てはまるとは限らないのではないかと思いました。

しかも、教理の本や人が言っていることを主体に歩んでいけばいくほど、御言葉とズレや矛盾を痛切に感じるようになっていきました。

このままでは違った方向に進んでしまうのではないか?と、御霊に感じはじめた時でした。

ある姉妹が私にこのようなことを言いました。

「私ね、こちらの教会に来たばかりの時にしばらくAさん御夫妻の隣の席で礼拝していたの。その時にAさんに信仰のことで少し相談したのね。そしたらAさんは基本的には聖書しか読まないとおっしゃっていたの」と、私に話しました。

私もAさんと多少なりとも面識がありました。

あるときAさんと信仰のことで話すきっかけがあったので「何かあったとき、聖書を読むことが大切ですよね」と、それとなく聞いてみました。

そうしたら間髪入れずに「そうそう、聖書はすべて本当のこと。その他のことは嘘が多い」とはっきりとおっしゃいました。

そうか、やっぱりそうだよなぁ、聖書だけが真実だよなぁ、と、いくら霊的に鈍い私でもAさんが発した言葉は神様から来たものだと確信を抱くことが出来ました。

そのことをきっかけに教理の本を読むことをやめて聖書だけを読むようになりました。

はじめの数ヶ月は特別な変化はありませんでした。

しかしある時から不安や恐れから少しずつ解放されていくのを感じるようになりました。

聖書に書かれていること、イエス様が言われていることは、まことであること、そして御言葉に触れ

単に信じるだけで悩みや問題や煩いから解き放たれていくことを理屈抜きで理解出来るようになりました。

時として教理の本からも学ぶことはあるかも知れませんが、御言葉を上回ることはありません。

逆に、御言葉を通して正しく吟味することが大切だと思います。

教理から御言葉を見るのではなく、聖書から御言葉を読むことが聖書を正しく理解する(正しい教理を得る)ポイントになるのではないかと思います。

聖書の言葉に触れることがイエス様のところにいくことに通じることやイエス様にすべての解決方法があることを長年に渡って悟ることが出来たことは私にとって大きな収穫でした。

そして聖書の御言葉を土台とするようになってからズレや矛盾からも徐々に離脱できるようになり、真理とそうでないものの区別する力も少しずつではありますが培われるようになっています。

 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とありますが、私たちがどんな時でも御言葉を土台としていなければ、信仰はあっという間に覆され、崩されてしまいます。

いつも御言葉を堅く握っていることが勝利のポイントです。

もし、御言葉をあやふやにしているならばいつでも信仰を捨てる可能性があることを正しく御理解ください。

平素の時にはすべてのクリスチャンが同じような歩みをしているかのように見えます。

しかし、聖書のたとえばなしにもあるように洪水が来たとき、すなわち試練、困難、はたまた神につくのか人につくのかという究極の選択を迫られたときに、その人の信仰の真価が神様の前に顕著なものとなります。

 

永遠の命を得るためのポイントは、繰り返しますが、イエス・キリストです。

具体的には祈り、御言葉に触れることです。

教理から御言葉を学ぶのをやめて、ぜひ、御言葉に立ち返ることをおすすめします。

「主に立ち返りなさい、御声に耳を傾けて従いなさい」と、今日も私たちクリスチャン一人一人の心の扉をイエス様は叩かれています。

建前はどうであれ、真の意味合いでイエス様を心にお迎えしているクリスチャンは本当に少ないことを御理解くださいますように。

また、どうか、御心を行う人になってください。

当時のパリサイ人は口先で神様を敬うだけでした。

そして、彼らの心は神様から離れていました。

御心を行わないゆえにつまずきの石、さまたげの岩であるイエス様につまずいてしまいました。

聖書に御言葉を聞くだけで行わない人は死んだも同然だとか自分自身を欺いていると書かれていますが、いくら肉体が生きていても霊的に死んでいるのであれば罪のうちを歩むことになってしまうのです。

御言葉を守ることも永遠の命を得るために、とても大切なことであることを御理解ください。

御心を行えるようにぜひ、祈り求めていきたいと思います。

そして、私たちが、主の御心を行っていくならば、主の弟子、しもべになっていきます。

12弟子のように、いつでもイエス様の身近にいるように歩みを目指し、天の御国を受け継いでいきたいと思います。

 

 

 

 

聖書のみ言葉 ヨハネ4:21-24

 ヨハネ4:21-24

 

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

上記、イエス様が言われた言葉は旧約時代の終わりの時だけのことではありません。

新約時代の終わりを生きている私たちにも語られていることがらです。

この視点に基づいて主が言われていることについてみてみたいと思います。

 

順にみていきます。

 

21節

4章を1節から順に読まれていくと分かることですが、彼女とはサマリヤの女のことです。

ソロモンが亡くなった後に、旧約の神の民は北のイスラエルと南のユダに分かれました。

詳細ついては触れませんが、北のイスラエルは今で言うカソリック、南のユダはプロテスタントを指します。

サマリヤは北イスラエルの町です。

イエス様はこの時カソリックの信者である女性と話されていたわけです。

 

22節

この箇所はとても大切なところです。

皆さんはこの箇所を読んでどのように思われるでしょうか。

クリスチャンは週に一度当たり前のように礼拝に行きます。

天地万物を創造された神様に、賛美、お祈り、メッセージを捧げることをプロテスタントでは一般的に礼拝と呼んでいます。

カソリックでは、このことをミサと呼んでおられると思います。

「そんなこと今更あえて言われなくても分かっているよーっ!」とおっしゃるかも知れません。

しかし、ここでイエス様が「知らないで礼拝しています」と言われていることについて、今一度考えてみなければならないのではないでしょうか。

私たちクリスチャンが何に向かって礼拝しているのかどうかです。

ここに登場しているのはサマリヤの女です。

女は教会にたとえられていることから考えていくと、イエス様はカソリック教会の信徒の方々に、ここで語られているのです。

立派な会堂をはじめ、法王がいて、儀式が行われ、シスターと呼ばれる女性は白い衣をまとい、何かとても敬虔そうです。

人の目には何ら問題なく逆に良くも見えます。

しかし、その実態は・・・

法王を神様の位置と等しくしたり、マリヤをキリストの共同の贖い主として拝んでいたりします。

このことは人を神として崇めてしまう器崇拝に直結することです。

そして、「主にのみ仕える」という御言葉に反逆することであり、神様から怒りをかってしまいます。

ここで言おうとしていることは神様を礼拝すべきなのに、いつの間にか人を礼拝の対象としてしまっていることです。

もっと分かりやすく言うならサタンに捧げている礼拝だということです。

それは真の礼拝ではなく偽りの礼拝です。

残念ながら偽りの礼拝は神様には喜んでいただけません。

いくら口先で神様、イエス様と言っていても受け入れていただくことは出来ません。

そのような礼拝を捧げても何ら意味が無いということをぜひ御理解くださいますように。

このことはカソリックの教会だけに尽きることではないと思います。

プロテスタントの教会においても御言葉よりも人の思いや考えを優先して牧会や集会や働きをすすめている教会が多いからです。

聖書には書かれていないクリスマスにかかわるイベント等はその代表とも言えるのではないでしょうか。

また、クリスチャンは艱難を通らない、クリスチャンと名が付けば裁きにあわない、地獄は存在しないという教えも御言葉に反しています。

いずれにしても御言葉である神様をないがしろにしたところには、残念ながら神様は共におられません。

この節の「知らないで礼拝している」とは、あなたがたは真の意味合いで神様を理解していない、もっと言うなら聖書の御言葉を全然分かっていない、ゆえに神様ではない別のものを礼拝している、そのようなことを言われているのではないかと思います。

 

23,24節

イエス様はいつまでも別のものを拝んでいることを決して良しとはされていないことについてここに書かれています。

建前ではなく、真に神様を礼拝する人たちが来ることについて言われています。

クリスチャンと名が付いていても、実は多くの人がキリストを敵対している、しかしそういった中にあっても真理に目覚めて主だけにお仕えする人たちもいるということを言っているのです。

イエス様の初降臨の時は旧約の終わりの時でした。

その時代に、「今がその時」と言われたように、今の新約の終わりも同じことが当てはまるのではないでしょうか。

今がまさに真の礼拝を捧げるべき時なのではないかと思います。

今、キリスト教界は聖書に書かれていないおかしな教理のオンパレードです。

しかし神様はおかしな教理をそのままにされるお方ではありません。

そのようなことを指摘して正しい道を示す人たちが神様によって興されます。

そのことを通して真の礼拝を捧げる人たちもわずかではあってもこれからあらわれることを言われているのではないかと思います。

また、カソリックの信徒の人たちに聖霊が下されることについても言われています。

聖霊が下されていないゆえに真理が見えない、しかし、イエス様が聖霊を下されるなら、すべてのことを理解します。

神様の目から見てカソリックの多くの信者の人たちは聖霊を受けていません。

しかし、サマリヤの女はイエス様から生ける水をもらったときに、イエス様が救い主であることを正しく理解しました。

それと同じように、聖霊を受けるとき、私たちも真理を正しく見ることが出来ます。

真理を正しく理解した時に、私たちは真の礼拝を神様に捧げることが出来ます。

24節には神様は霊であるとはっきり書かれています。

ですから私たちも霊とまことによって、すなわち心を尽くして神様に礼拝を捧げていかなければなりません。

そうしていくポイントは、日々、聖霊に触れていくことです。

御霊によって絶えず祈り、御言葉に触れた生活を送っていくことがそのことに通じていきます。

そして週に一度の礼拝の時だけではなく、毎日毎日、また、瞬時においても私たちが御霊によって歩むことこそが、真の礼拝者と言えるのではないかと思います。

ぜひ日々の歩みにおいて聖霊の力を絶えず祈り求め御心にかなった働きをしていきたいと思います。

 

数年前、ふと、自分は本当に真理を求めているのかどうか疑問を持つようになりました。

毎週休まずに礼拝に行き、週の半分以上はお祈り会や証会等集会と呼ばれるものには、ほとんど参加し、言われた奉仕は何とかこなしていました。

しかし、本当にそれでいいのだろうか?神様はどのように思っておられるのだろうか?と、自問自答を繰り返すようになりました。

そんな中で、天国と地獄について真剣に向き合うようになりました。

当時の私は艱難前携挙説のことを信じていました。

しかし反面、自分はこのままでは天の御国が危ないのではないかと御霊に感じました。

特に根拠は無かったのですが、真理を分かっていないのではないかと、ひしひしと感じるようになったからです。

毎週の礼拝で賛美、お祈り、御言葉の学びをし、ごくごく普通のクリスチャンとしての歩みはしていました。

でも、聖書の言われている真理について、正面から向き合っていないことを示され、その時から聖書を真剣に通読するようになりました。

そうしているうちにエレミヤの部屋のホームページに出会いました。

何度か証をしているように、このことをきっかけに聖書の読み方や信仰姿勢が一変しました。

そして自分はうわべだけの礼拝者であり、偽善的な歩みをしていたことを知ることが出来ました。

そのことをきっかけに少しずつ真っ向から御言葉と向き合うことが出来るようになりました。

主の憐れみによって弟子の歩みもさせていただくようになり、聖霊にある喜びに触れさせていただいています。

聖書の至る箇所を通して御霊によって歩むことの大切さについて学び、そのような歩みが出来るようにという祈りがはじまってから数年が経過していますが、ますますそのような思いが増し加えられていること、とても感謝しています。

このことについても、ただただ聖霊の力によるものだと思います。

今、すでにキリスト教界は闇の支配下にあり、背教は加速しつつあります。

しかし、そのような中にあっても、常に光であるイエス様を見上げて歩み、勝利を得られていかれたらと思います。

 

 

 

聖書の御言葉 ヨハネ3:5,6

 

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 

神様を知らない人や大半のクリスチャンから見て、クリスチャンとは1種類だけだという風に思われているように思います。

天地を創造された神様を認め御子イエス・キリストを救い主として信じているのがクリスチャンだと。

しかし、神様の目から見ると人によって歩みは全く異なります。

そして結末も異なります。

クリスチャンと名が付けば、皆が御国に入るわけではありません。

5節に書かれているように、「水と御霊によって生まれた人」が天の御国を受け継ぎます。

言うまでもありませんが、このことは個人の見解で申し上げているのではなく、本日の聖書箇所にはっきりと記されています。

天地が滅んでも神の言葉は過ぎ去ることが無いと言われていますように、聖書に書かれているすべての言葉は必ず成就します。

また、聖書はクリスチャンを対象に書かれている書物です。

本日もそのような概念に基づいて神様が語られていることについてご一緒にみていきたいと思います。

 

先ほど触れましたように神様の目から見て、クリスチャンは2つに区分されています。

以前、少し話をさせていただいたかも知れませんが弟子or群集のいずれかです。

本日の御言葉から申し上げると御霊に属するクリスチャンor肉に属するクリスチャンに分けられます。

このことは人が判断することではありません。

なぜかというと人は表面のことしか分からないからです。

しかし心の奥底までも御存知の神様の前には一目瞭然です。

そして、私たちは神様の前に御霊に属するクリスチャンになっていかなければなりません。

そうでないと神様の前にクリスチャンと見なされないからです。

そのことについては下記御言葉を参照なさっていただければ幸いです。

 

参照 創世記17:14

包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 

割礼とは肉を切り離すことです。

肉とは良い部分も悪い部分も含めて私たちの生まれつきのものを指します。

上記御言葉の「その民」とは神様の民、新約でいうクリスチャンのことを指します。

ゆえに私たちが神様の民となるためには、生まれつきのものは捨てられてすべて神様の力によって変えられるように祈り求めていかなければいけません。

生まれつきの状態のままでは、天の御国に入れないとはそのようなことを言われているのです。

うまく言えませんが神様の霊によって私たちの霊が新しくされなければならないのです。

また、クリスチャンになったからと言ってすべての罪が無くなったわけではありません。

礼拝に出席してメッセージや聖書の言葉を通して、むしろ自分自身がいかに罪深い存在であるかということを自覚していくようになります。

ある意味クリスチャンになったというのは、これからイエス様と一緒に歩みをしていくというスタートラインに立ったことに過ぎないのです。

特に洗礼を受けたばかりの頃は生まれつきの性質がまだまだ残っています。

しかも生まれつきの私たちの性質というのは、どちらかというと自己中心的な考え方しか出来ません。

そのため時として短気になってしまったり人を羨んでしまったりします。

もちろん悪い部分ばかりではありません。

生まれつき人より知能指数があり頭の回転が早く仕事を早くこなしたり人に対して優しく接したりすることも出来るかもしれません。

確かにこのことは人の目から見たら良いものかも知れませんが神様の基準は違います。

残念ながら良いものもそうでないものも神様の前に生まれつきのもの(肉)はすべて罪であるということを正しくご理解いただきたいと思います。

そのようなことに気づいて、はじめて御霊による歩みをスタートさせることが可能になります。

そうでないと私たちにしつこく根付いている肉の性質というものがいつまでたっても根底からひっくり返されないからです。

 

それではどのようにして生まれつきのものから解放されて御霊によって歩んでいかれるのかについてみていきたいと思います。

第一に聖霊に触れることです。

聖霊の力だけが私たちの生まれつきのものを切り離すことや新しく心をつくり変えていただくことが可能だからです。

そうしていただくためには熱心に祈っていくことです。

お祈りを通して神様は働いてくださいます。

神様の力を信じて祈り求めていく人にそのことは必ず実現していきます。

第二に聖書の御言葉を読み込んでいくことです。

聖書の御言葉には私たちの信仰の歩みにおけるポイントについて数多く記されています。

それと同時に聖書は、イエス・キリストを証する書と言われていますし、天の御国に入るための手引書とも言えます。

ゆえに、私たちが聖書を読まずに神様の言葉を無視してしまうと正しい方向(真理の道)を歩むことは出来ません。

目的地(天の御国)を失い、別のところへと向かってしまうことになります。

このことはとても恐ろしい結末を招いてしまいますので、絶対に回避すべきです。

日々、聖書を読み御言葉からも神様の語りかけを聞いていきたいと思います。

第三に神様の御心を行っていくことです。

御言葉を実践していく人に神様の栄光や御業が反映されます。

ヤコブ書に行いの無い信仰は空しいという言葉がありますが、聞くだけで行わない人は神様の前に偽り者と見なされてしまいます。

また、人は一度死ぬことと死後裁きを受けること、そして、おのおの自分の行いに応じて裁かれることについて聖書に書かれています。

私たちが地上で何を行ったかが裁きのポイントであり、そのことを基準に死後の行き先が確定されてしまうことをぜひ理解くださいますように。

また御霊によって歩んでいくことは御霊の実を結ぶことに通じていきます。

このことは神様の働きを担っていく上でとても大切なことでもあります。

一方、「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれます」とか「肉に蒔く者は肉を刈り取る」とあるようにこれらの行き着く先は「死」です。

ぜひ御霊によって歩みが成せるように日々祈り求めていきたいと思います。

先ほども申し上げたようにこのことをきちんと実践していく人は実態を見ますし恵みや祝福の歩みに入っていきます。

特別な苦労をしなくても聖霊の力によって神様の似姿に次第に変えられていきます。

しかし実行しない人は残念ながらいつまでたっても肉の歩みから解放されることはありません。

このことには全く御心が無いことを御理解ください。

イエス様を救い主として信じて受け入れるか否にはじまって、御霊によって歩むか、はたまた生まれつきのもの(肉)によって歩むか、どちらか一方を私たちは選択しなければいけません。

なぜかというと御霊と肉は相反するものだからです。

この地上で生かされている間がチャンスです。

魂が肉体を離脱してからでは一切やり直しは出来ません。

このことを心に留めて歩んでいく必要があります。

どちらを選ぶかについてはお一人一人の意志に託されていますし、どのように歩んでいくかは常にお一人一人の判断に委ねられています。

善悪ともにすべてのことを公正に裁かれる神様の前に賢い選択をして天の御国を受け継ぐにふさわしい歩みをしていきたいと思います。

 

もともとの私の性質といえば人から悪く思われるのが嫌でした。

信仰を持つようになってからも、神様にも人にも受け入れられたいという思いがいつまでも離れませんでした。

でも、数年前に「世を愛するなら御父を愛する愛は無い」とか「みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです」という聖句に触れた時に、心の中が一変しました。

いくら人から良く思われても神様の前にそうでないのなら何の意味も無いと。

そして自分は世の中のことを求めていることに気づきました。

しかも、神様のことと世の中のことは両立しないのだということについて改めて理解しました。

ただし、しばらく間は頭の中でそのことを理解しただけでしたので、真に変えられるように祈ってみました。

完璧かどうかは分かりませんが以前に比べて人からの評価が気にならなくなりました。

神様の不思議な力や知恵や方法によるものだと思います。

明らかに主が勝利を取って下さったことに確信を持つことができて感謝でした。

また、このことを通して神様の働きが少し広がっていったようにも思います。

まだまだ生まれつきのものは残っていますし、そのことにとらわれていることも多々ありますが、日々の祈りを通して徐々に変えられていかれたらなぁと思います。

本日このようにメッセージを書きながら御霊によって歩んでいくことの大切さについて自分自身が改めて教えられたように思います。

主に栄光を帰し、感謝いたします。

 

 


聖書の御言葉 ヨハネ2:23-25

 

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。

2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、

2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

 

世界中には信仰を持つ多くのクリスチャンがいます。

23節に書かれているように、イエス様のことを信じている人は沢山いらっしゃいます。

ペテロを筆頭に数多くの教会が建てられ、世界中に宣教活動は広がっています。

このことは、神様の目からみて尊いことです。

なぜかというと、ペテロ(岩)の上に教会を建てようとイエス様は言われているからです。

 

順にみていきたいと思います。

 

23節には、多くの人がイエスの行われたしるしを見て御名を信じたとあります。

皆さんは、この箇所を読まれていかがでしょうか。

信じることはよいことですが、このような信じ方は主の前に賞賛されるものではありません。

なぜかというと、ヨハネの福音書4章で「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と言われているからです。

この言い方に、叱責のニュアンスを感じます。

はじめに申し上げたようにクリスチャンはそれぞれ信仰を持っています。

せっかくですので、信仰の意味合いについて少しおさらいしたいと思います。

ヘブル人への手紙にはこのように書かれています。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

つまり、しるしや不思議を見てから信じるのではありません。

うまく説明できませんが、まだ見ていないもの、具体的にはキリストにどこまでも望みをおき、期待をし、信じて歩んでいくことです。

すでに目に見えているものは望みではないからです。

簡単に言うと、見えない神様にだけ目を注ぐこと、これが信仰です。

たとえば、マイホームが欲しいという願いを持っている人がいるとします。

その人は、まだ、キリストを受け入れていない状態であったとします。

しかし、祈ったらマイホームが手に入ったのでイエス様のことを信じることにしました。

よい例かどうかは別として、このような方法、具体的には何か目の前で起こってから信じる人のことを、しるしや不思議を見て信じると言われているのだと思います。

 

24節に「しかし、イエスはご自身を彼らにお任せにならなかった」とありますが、このことについて何を言おうとしているのでしょうか。

引き続き25節には、「人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」とあります。

聖書はイエス様自身のことについて証する書とも言われています。

そして、今日も、イエス様は御自身について証されることを望んでおられます。

しかし、すべての人にご自身の証を望んでいるわけではないようです。

なぜなら、24,25節の御言葉を通して、しるしと不思議を見て信じた人からはご自身の証については必要とされなかったというふうに読み取れるからです。

クリスチャンの歩みの中で、場所はともかく、証をする機会が与えられていると思います。

証をすることは、とてもよいことです。

証を通して救われたり、霊的に励まされたり慰めを得る人もいるからです。

しかし、証なら何でもよいかというと、それはまた違うように思います。

証は人に聞いていただく以前に神様に捧げるものだからです。

また、さきほど話しましたように聖書はイエス様を証する書ですのでイエス様がどのようなお方であるのかということが聞いている人に伝わっていかなければいけません。

つまり証を通して、聖霊の力に触れたり、霊的に益を受けるものでなければ証とは言えないのです。

祈った結果、マイカーが与えられたとか給料が上がったとか、第一志望の学校に合格したとか、時にはそのような恵みの証もよいかもしれません。

しかし、それだけで終わってしまったら、しるしと不思議を見て信じる信仰、つまりこの世の御利益宗教と何ら変わりがなくなってしまいます。

この世についた証ばかりをする人に、イエス様はご自身のことを証して欲しくないと言われているのではないでしょうか。

実際には、イエス様をお遣わしなったお方のこと、もっと単純に言うなら、神様の御心について証しする方を求めておられます。

イエス様がなさった御業や栄光が反映されていなければ残念ながら神様の前に証とはみなされないのです。

 

また、ここで言われているすべての人を知っておられたとか人のうちにあるものを知っておられたという言葉に着目してみたいと思います。

イエス様は私たちのどの部分を御覧になっているのでしょぅか。

私たちが真にイエス様を愛しているかどうかについて目をとめられておられます。

イエス様を愛するというのは、御言葉である真理を愛するということにそのまま通じます。

分かりやすくいうと、すべての聖書の言葉を信じて受け入れることです。

そして、イエス様は真理を求めている人のことをご存知であります。

しかし、残念ながら、クリスチャンの中でも真理を愛する人はあまりいません。

真理を信じて受け入れることが天の御国に入るには必須であるにもかかわらずです。

とても不思議なことですが、下記御言葉がそのことを証しています。

ヨハネ5:36-40

5:36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。

5:37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。

5:38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。

5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 

上記御言葉は、イエス様が神の民に向けて語られた言葉です。

たとえば、神は愛であるということについては耳を傾ける人は山ほどいます。

神様を知らない未信者の方でも、喜んで聞いてくれます。

しかし、裁きの話になると、クリスチャンであっても聞いてくれる人はほとんどいません。

まして、今の時代、キリスト教界ではクリスチャンと名が付けば皆天国に行けるとか、あわや地獄は存在しないなどという教えが浸透しているため、携挙が偽りの教えであることやクリスチャンが艱難時代を通ることや再臨は真理に従わないクリスチャンへの裁きの時であることを話してもなかなか信じてもらえません。

ヨハネの福音書の1章にはこのように書かれています。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

皆さんもご存知のように、まことの光とはこの方とは、イエス・キリストのことです。

ご自分の民とは、神様を知らない未信者のことではなく、クリスチャンのことを言われています。

真理であるイエス様のことを目の当たりにしながらも、当時の人から受け入れられづらいものであったことがこの箇所を通してもご理解いただけるかと思います。

このことは、今の新約の時代を生きる私たちへの語りかけでもあります。

今、肉体を持たれたイエス様はおられません。

しかし、もう一人の助けぬしである聖霊が私たちと共におられます。

聖霊は真理の御霊とも言われていて、真理についてすべて解き明かしをします。

でも残念ながら多くの人が真理を受け入れないので、クリスチャンと称していてながらも結果としては聖霊を拒絶してしまっています。

また、神が遣わした者を信じることが神のわざを行うことに通じるわけですが、今、真理を語る人が迫害される時代に入りつつあります。

悲しいことに、現実には大半のクリスチャンが背教へと向かっています。

このことを真剣に考えなければいけません。

そうでないと、得られると思っていた永遠の命を逃してしまう危険性があるからです。

何度か申し上げていますが、今は世の終わりです。

また、世の終わりというのは、キリスト教界においても、嘘・偽り・惑わしが赦される時代です。

ゆえに、永遠の命を獲得するのは、とても厳しいことを正しくご理解ください。

命にいたる門は小さくその道は狭いと言われていますが、更にそのようになっていくと思います。

本日の箇所もそうですが、聖書のすべての言葉には意味があり、必ず成就します。

もし、真理を受け入れていないようでしたら、ただちに真理に立ち返ることをおすすめします。

御言葉にも主の日は近いと書かれていますが、時はすばやく終わりに向かいつつあるからです。

祈り、御言葉に触れ、真理について正しく理解をして、キリストを土台とした歩みに徹していきたいと思います。

 

何度か申し上げましたが教会では、終末の預言の解き明かしやクリスチャンに向けて警告を発信する働きを担っています。

私自身、時々主の導きで、個人的に警告のことを伝える機会があります。

この間、あるクリスチャンに文面でそのことをお知らせしました。

すでに時代が曲がっていて教理がおかしくなっているので方向を正していくことやクリスチャンであっても神様の前に正しく歩んでいかないと裁きの対象になってしまうことについて書いた内容の手紙をニュースレターと一緒に送らせていただきました。

黙示録セミナーに参加してくださった方なので、以前から、そういったことについて少しずつ話していたのですが、今のところ、このことについて反応はいただいていません。

イエス様がこのように語れていますということも書いたのですが、裁きについて確信的なことを申し上げたので、受け入れていただくのは難しいようです。

少し残念な気もしましたが、受け入れるか否かは別として、真理を伝えていくのが私たちクリスチャンの使命ですし、神様は一人でも多くの人が真理に立ち返るのを忍耐強く待っておられるので、聖霊の導きによって一人でも多くの人にこれからも福音(真理)を宣べていきたいと思いました。

これからも、そのような機会が少しでも与えられるように祈り求めていきたいと思います。

 

 

 


聖書の御言葉 ヨハネ1:32

聖書箇所 ヨハネ1:32

 

1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

                           

上記御言葉は、イエス様に御霊が下ったことについて書かれています。

このことは、私たちクリスチャンへの語りかけでもあります。

 

御霊とは聖霊のことです。

ちなみに聖書の中では、聖霊について様々な描写があります。

水、ぶどう酒、油、真理、宝、風等にたとえられています。

また、三位一体という言葉がありますが、聖霊=イエス・キリスト=天の父なる神様です。

ゆえに聖霊は神様の霊であることが理解できると思います。

もちろん聖霊は霊ですので、目には見えませんが、私たちクリスチャンの歩みを助けてくださるお方です。

もう一人の助けぬしとも言われています。

 

参照 ヨハネ14:16,14:26,15:26,16:7

 

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

 

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 

助けぬしという視点から聖霊についてみてみたいと思います。

私たちクリスチャンは日々、信仰生活を送ります。

毎週礼拝に行ったり、教会の奉仕をしたり、祈ったり、御言葉を読んだりします。

これらのことは、一見自分の力で行っているように見えますが、実は、いずれも聖霊の助けによってなされるものです。

つまり、聖霊の存在はクリスチャンの歩みに欠かせないものなのです。

また、聖霊の助けは天から与えられるものです。

クリスチャンは聖霊の力によって神様に仕えていきます。

そのために、祈り求めていくことが大切です。

祈りも求めていくことによって、上から与えられていきます。

しかも、無限に与えられます。

信じて行っていく人には、必ずこのことは実現します。

 

また、聖霊の力によって仕えていくことは、律法を確立することに通じていきます。

今、レムナントキリスト教会の午前の礼拝ではローマ人への手紙について学んでいます。

先日学んだ箇所から律法から解放されることの大切さについて教えられました。

律法から解放されるからと言って自ら罪を犯すことを奨励しているわけでは決してありません。

それでは、聖書に書かれている律法とは何のためにあるのでしょうか。

それは、私たちの真の姿、すなわち罪深い存在であることを知るためのものです。

そして、すべての律法を守ろうとしても守れないこと、逆に罪に支配されてしまうことを学ばせていただきました。

ゆえに私たちが律法に死んで解放されていることを信じて歩んでいくことはとても大切なことです。

先ほど申し上げたように、新しい文字(聖霊)によって仕えていくことによって律法が心の板に書き記されていき、古い文字(律法)ではなく、御霊によって生かされていくようになっていきます。

私たちを命に導くのは、御霊であるということを御理解いただきたいと思います。

 

参照 ガラテヤ人5:18,25 ヘブル人7:19

 

ガラ 5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

ガラ 5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 

ヘブル 7:19 律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

 

ぜひ、御霊によって歩んでいきたいと思います。

クリスチャンお一人一人がいつも内側に聖霊を宿した真の神の宮になることをおすすめします。

なぜなら私たちの信仰の歩みには、聖霊の助けが必要ですし、主のまっすぐな道を歩み天の御国を目指す上で不可欠だからです。

 

また、終末には、聖霊が追い出されてしまうことが聖書に記されています。

下記、御言葉がそのことを言われています。

 

Ⅱテサ 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

黙 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

聖書には、主にだけ仕えなさいということが書かれています。

逆に聖霊を拒んでしまうと、別の霊(悪霊)の支配の中に入ってしまうので気をつけていきたいと思います。

かつての私もその一人だったのですが、今、多くのクリスチャンが聖霊の語っている声を聞こうとも従おうともしないため、知らないうちに悪しき霊に仕えてしまっています。

残念ながら、このことは神様の怒りをかってしまいますし、神様はこのことについてとても悲しんでおられます。

もし、心を頑なにしていつまでも悔い改めを拒んでしまうと、結果として御顔から退けられてしまいます。

しかし、憐れみ深く愛と慈しみに富んでおられる神様は、背信に向かっているクリスチャンが、一人でも多く、神様に立ち返るのを忍耐を持って待っておられます。

ぜひ、主の前にへりくだって聖霊の力を祈り求め、聖霊の導きによって歩み、御国を相続するにふさわしい者になっていきたいと思います。

 

以前は、今に比べると歩みや働きのために祈るという習慣がほとんど身についていませんでした。

特に働きに関しての祈りこみがなされていませんでした。

もちろん、多少なりとも祈るのですが、働きをする直前とか一言だけという祈り方しかしていませんでした。

証やメッセージの中で何度か申し上げているのですが、弟子の歩みをするようになってから、祈りが強められるようになりました。

教会の働きをわずかでも担わせていただくようになり、そのために神様の助けを祈り求めていくようになりました。

前にも申し上げたかもしれませんが、今では実際の働きの時間よりも祈りに費やしている時間の多くなりました。

そして、歩みや働きにおいて、すべてのことを徹底して祈っていくことによって神様の力によって助けられているということに実感を持てるようになりました。

祈りについて、自分で意識してそうしていることもありますが、しかし、このことも聖霊の助けによってなされているんだなぁと思いました。

これからも更に聖霊の力を祈り求め、御心にかなった歩みや働きしていかれたらと思います。

 

 


FX