ローマ人への手紙9章 2010.12.19,12.26,2011.1.2

ローマ人への手紙9章 2010.12.19,12.26,2011.1.2

 

9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

第一義的な意味合い:肉による同国人、肉の子ども

2種類のクリスチャンについて語られている

肉的なクリスチャン、霊的なクリスチャン

肉的なクリスチャンの悲劇や問題について言われている

本来受けるべき祝福に入らない、名目だけの祝福→結論として呪われる

 

9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。

すべての約束は文字通りある

しかし肉的なクリスチャンに成就しなかった→このことは今のクリスチャンにも当てはまる

肉的に歩むなら約束は成就しない

律法の効力を発揮しない(恵みや祝福に至らない)

 

9:5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

イエス・キリストは神、しかし信じがたい

神の言葉は信じがたい、しかし信じる人に御心がある

 

9:6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

クリスチャンと名が付いていても神の前にクリスチャンと見なされているわけではない→狭い門、狭い道であることを理解する

 

9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。

すべてが神の子ではない

 

9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

2種類の子どもがいる

肉の子ども,約束(御霊)の子ども

肉の歩みをするのか?聖霊にある歩みをしていくのか?

 

9:9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

9:10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

リベカ 同じ親(イサク、リベカ)から生まれた双子の子どもに関しても同様のことが言える

それぞれの子どもが全然違う歩みをした

ヤコブ:長子の権利を得た

エサウ:長子の権利を放棄して俗悪な歩みをした

同じ親から生まれても2種類の運命がある

神の子どもに2種類の区分がある

 

9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、

9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

エサウ、ヤコブは別の道を歩んだ

エサウ:長子の権利を受け継がない

ヤコブ:長子の権利を受け継ぐ

洗礼を受ける前から(まだ生まれてもおらず)歩みが異なる

召し、神の選びがポイント→これによって歩みが根本的に異なる

ヤコブは長子の権利を得ることを自分で選んだ

エサウは破棄した

今のクリスチャンへの語りかけ

あるクリスチャンは神に用いられる(栄光を見たり働きを担ったり祈りが答えられたりする)

あるクリスチャンはトラブル続き

それは行いや能力ではない

選びと召しが重要

神から声がけがあったときに、それにきちんと応答するかどうかによって歩みが異なってくる

召しをつかむのか(イサクやヤコブのように)、つかまないかによって全く違う道に入る

選ばなければいけない

神の方法は人の方法を覆す

声がかかったときに、ついていかない人はNG

神の神殿の一部を担う→神の働き

 

9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

霊にあるクリスチャン、肉にあるクリスチャン(ろくなことにならない)

このことは後の世(永遠の命)において深刻な結果をもたらす

色々な訓練を経て霊にあるクリスチャンに変えられていくことが大切

神様の教えをないがしろにしないこと

神様に祈り頼る→不可能も可能になっていく

生まれつきできること(たとえよいことであっても)はすべて肉→このことは永遠の区分をもたらす

聖霊による歩みがポイント

Ex イサク:聖霊にあるクリスチャン→財産(天の御国)を相続した

  イシマエル:奴隷(罪)の子ども→家から追い出されてしまった

  二人ともアブラハム(たとえ:神)から生まれた

  神の前に本当に神の子かどうか?

 

9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

エサウは自分で放棄した

ペテロやヨハネは自分で選んで主に従った

パリサイ人はイエスのことを鼻から相手にしなかった

自分で選ぶ者を選んでいる

召しに応答する者が御業や栄光を見ていく

 

9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

神が目を留められたらしめたもの

クリスチャンはこの世の常識しか見ない

神の視点は違う

神が目を注ぎ憐れんでくださるかどうか?→芽を出す

このことに目を留めないなら勘違い

 

9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

人が勘違いや思い違いをして、見当違いな教理をつかむのはなぜかについて書かれている

神がその人の心を頑なにさせられた

人が真理を見るのは神がその人の心に触れ憐れみ心をやわらかくしてくださるから

頑なな人は滅ぶ

頑なな人が多い、自分を正しいと思っている

パロは悪い型(惑わされたクリスチャンの型)→頑な

でも、もし正しく歩むなら神の憐れみを受ける

パロ王の型に入ってしまわないように祈ることが大切

神の声に耳を傾けないと頑なになってしまう

惑わしは神からくる

人の振り見て我振りを直す

主の力によって何とか見えるように、惑わされることのないように祈る

 

9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

(聖霊を受けるための器、クリスチャンのこと)

器以外にもクリスチャンはたとえられている Ex:麦や魚

2種類のクリスチャン→①尊い器(KJV:誉を受ける器)、②つまらないことに用いられる器(KJV:不名誉を受ける器)

クリスチャンは二分される

主の言われた歩みに入ることがポイント→尊い器につくりかえられる

しかし最後まで頑なにしてしまうことに御心は無い→滅び

どこかで聖書的な常識を持たなければいけない

祈り、御言葉を読む習慣は神の力によって身に付いていく

 

 

9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

怒りの器というたぐいの器がいる

聖霊を受けて、ある種のクリスチャンは聖霊に聞き従い誉を受ける、恵みや憐れみを受ける

聖霊を受けながらもある種のクリスチャンは怒りの器になる

聖霊に逆らっている人は神の怒りの対象になる→滅ぼされる

クリスチャンの歩みはそれぞれ異なる

 

9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

神が憐れんでくださるときに豊かな神の栄光を見ることができる

Ex:教会に終末のことが啓示される

神御自身が雲の柱、火の柱として導いてくださる

預言、夢、幻を通して語ってくださっている

 

9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

憐れみの器:今は未信者からもあらわれている

 

9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

数え切れないほどの人がいる(アブラハムの子孫)

しかし残された者(KJV:remnant)にポイントがある

この終末を経て真の意味合いで救われるのは残りの少数の者

 

9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

終末の一つの特徴:残りの人は少ない

 

9:30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

9:33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

キリストに信頼して歩んでいくことが尊い

Ex:セミナー、ニュースレター、出版の働き等

神の御業を見ていく

:キリスト

 

ローマ人への手紙8章 2010.11.21,11.28,12.5,12.12

ローマ人への手紙8章 2010.11.21,11.28,12.5,12.12

 

8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

罪の問題について6-8章に書かれている

罪に関しては神様の方法で対処していく 参照 黙示録19:7,8

キリストの花嫁にならなければならない

正しい行いを身に付けてキリストに迎えられる花嫁になる

神様の前にどうか?

主にあって正しい行いを成せるように祈り求めていく

 

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

原理:律法(ギリシャ語)

命の御霊の律法が記されている

それに従っていくなら罪と死の原理から解放されている

御霊の律法が心に律法が書き記される→信じて受け入れるなら実現する

キリストが御霊の教えを心に刻んで下さっている

歩みに関して大事なことを教えて下さる

私たちが歩む基本に関して心に御霊の律法が刻まれている→ただし信じることが条件→御心に沿った歩みが可能になる、書かれたもの(文字によるもの)から解放されて歩むことができる

 

8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

(霊でないもの)の概念を正しくとらえる

生まれつきのもの、よいものも悪いものもすべて

生まれつき持っているものは罪深いもの、そのことを認識する

普通にしていれば罪に入る→肉は罪深いもの→このことに聖書は何も期待していない→死に至る

イエス様は肉に関するものを解決するために来られ死んで下さった→幼子のようになって素直に信じて受け入れる

この世の認識と聖書のことは全く異なる

この世のことは肉のことばかり

 

8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

クリスチャン人生は神様の目から見て2種類

ある人は御霊に従って歩む

御霊によって歩むか肉に従って歩むか、決断次第で行き先が変わる

ある人は肉の欲求を満たそうとする

クリスチャンでも肉に従って歩んでいる人がいる→御心は無い

御霊に従って歩むにはとにかく祈る

御霊に聞いていくなら教えて下さる

何とか御霊によって歩んでいかれるように祈り求める→御霊に従っていく歩みを選択するならば律法の要求が十分に満たされていく

生まれつきの肉の欲求によって歩んでいくと、どの律法も難しくなってしまう

 

8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

心、思いの居場所がどこに向けられていくか?

この世のことばかりになっていないか?

肉に属することばかりを考えているなら肉に従う歩み

祈り、御言葉に時間を割く→御霊に属する歩み

霊的なことを生活に取り入れようとしないのは肉の歩み

 

8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

御霊に導かれて歩むことがポイント

 

8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

生まれつきのもので歩んでいるならイエス様の律法は実行できない

御霊による歩みができるように祈り求めていく

 

8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

or霊にあるかを常に吟味する

霊的に歩めるように祈り求めていく

 

8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

神の御霊が本当に住んでいるなら御霊の中に歩んでいる

Ex:賢い花嫁、愚かな花嫁(油を持っていない9

キリストの御霊が本当に内住しているかどうかを、よくよく吟味する

愚かな花嫁:肉の歩みに真最中のクリスチャン

キリストの声に従っていくなら罪から解放されていく→それが天国への鍵、歩むべきところへ入っていく

本当にキリストのものであるかどうかがポイント

 

8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

肉体は死んでいても霊は生きている

 

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

キリストの復活はたとえ

よみがえり、立ち上がる

罪の状態から立ち上がる

罪のある肉体をまとっていても霊が立ち上がっていく

聖霊によって生かされていく

生まれつきよいものを持っている人は危ない Ex:金持ちのたとえ

聖霊に従っていくときに弱くても罪があっても死ぬべき体も生かされていく

 

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

生まれつきの能力で生きていくようには召されていない

聖霊に頼って生きる

 

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

肉の歩み:自分の力に頼って歩む

自分の考えに頼り生まれつきのものに頼るのはNG

すべて聖霊に頼って歩む

生まれつきのものはすべて肉

肉により頼む奉仕と霊により頼む奉仕がある

聖霊により頼んだ歩みでないとトラブル続きになる

肉による判断や肉による決心は空しい、しかしそのことを通して神様は教えてくださる

すべて意味がある

自分に自信を持たないこと!!→神様に頼り聞く

 

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

神の御霊に導かれるなら神の子

           養子というニュアンスがある

生まれつきの子と養子は違う

養子は追い出される可能性がある

Ex 賢い花嫁:結婚が成立する(御霊に導かれるなら神の子)

  愚かな花嫁:結婚は成立しない(御霊に導かれないならサタンの子)

                この世に浸かっているクリスチャン

御霊に導かれるなら神の子らしく決断し、導かれる

神の御霊は導く、そのように歩んでいく

 

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

内側が聖霊に導かれるなら確信がある

 

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

子どもは相続するもの

神の子と言った時に相続する

ただし神の子としての歩みをきちんと全うした場合のみ→条件があることを理解する

条件:苦難を共にしているなら Ex:ペテロ、ヨハネ等の12弟子

どんな困難の時にもキリストにずっとついていった

今の時代もキリストと共に苦難がある Ex:ニュースレターの苦情

 

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

キリストと共に苦しむのは大変、しかし後に受ける栄光に比べて大したことではない

ゆえに物事に一喜一憂して不信仰になる必要は無い

(2010年の今でも通じる)の時の苦しみに会うのは当然 Ex:陰謀を企てられたり法廷に連れて行かれたりすること

それでも取るに足らないと言っている

本当に狭い道、正しい道を選ぶなら苦しむのは当然

賞賛されたら要注意(もし人から賞賛ばかりされていたら危ないと考えるのが正しい)

正しく御言葉を語り実践して苦しむなら喜んでよい

 

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

今の地球の色々な被造物は呪い(滅びの束縛)に入っている

 

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

子にされることを待ち望んでいる

子にされる:ギリシャ語、英語では「養子になる」の意味合い

正確には「神の養子になる」

クリスチャンの大きな勘違い:「実子」になると思い込んでいる

養子は追い出される可能性がある

その程度であることを認識する

きちんと神様の言うことを聞かないなら養子の身分を解消される

アブラハムに神はこのように言っている→「契約を結ぼう」と。

つまり、神様との関係は条件付であることを正しく理解する

正しく歩んでいくときに恵みを受ける

罪に入っていた体も主によって用いられる

 

8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

目の前で実現するのは望みではない

まだ実現していないことを祈り求め与えられていく

祈り求めていく時に形づくられていく

忍耐をもって祈っていくことが信仰

 

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

罪に陥ったり問題の中にいても御霊がうめきをもってとりなしてくださる→神様の憐れみによって滅びずに生かされている

参照 出エジプト32:9-12,14

とんでもない罪を犯している民すべてを滅ぼすと神は言われた

しかしそこでもモーセがとりなしをした→神の怒りがとどまった

滅びにいたる罪を犯していても聖霊がとりなしてくださる

聖霊からくるとりなしの霊がある

参照 出エジプト32:31-34

この時のとりなしも聞かれている

命がけのとりなしに主が答えてくださった

その都度その都度聖霊が私たちをとりなしに導いてくださる

 

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

私たちが神の御計画(働き)のラインに沿って歩んでいくならすべてがあい働いて益となっていく(たとえ、失敗も罪を犯しても人と仲たがいしてしまっても)

ただし今の時代の神の御計画に沿って歩んでいくことが条件

神の働きに反発してはダメ

◎警告の召しに従っていくことがポイント

 

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

キリストと同じ形になっていくことがポイント

健全な信仰生活を送っていくならキリストと似た姿に変えられていく

 

8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

人々に関して召しがある

      義になっていく

召しに応答していかない時に義とされるかどうか分からない

召しに従っていく時に義とされる

正しくされると栄光を見るようになる

召しに応答しないと成就しない、約束は絵に描いた餅のよう

召しに応答しないと実現しない

 

8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

神の召しに従っていくなら敵が来て恐れる必要は無い

たとえ困難の中に入っても・・・

神が味方になってくださる

 

8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

必要な事柄は与えられる

小さなことも大きなことも祈る

 

8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

罪があってもとりなしてくださる

 

8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

ほふられる羊

神の前に捧げる:祭壇の犠牲

羊を捧げる(たとえ) 羊はクリスチャンのたとえ

     全焼のいけにえ クリスチャンが聖霊の火で焼かれていくこと

祈りをもって働きをしていく

     羊は捧げられていくときに切り裂かれて命を失う

自分を捨て自分の十字架を背負ってキリストに従う→神の前に喜ばれる捧げもの、神の前に尊い歩み、羊は命を失う

ぶつかり合い、非難がある

 

8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

これらすべての困難は来る

もし困難が起きないなら要注意

御言葉を行えば圧倒的な勝利者になる

 

 

 

 

ローマ人への手紙8章 2010.11.21,11.28,12.5,12.12

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8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

罪の問題について6-8章に書かれている

罪に関しては神様の方法で対処していく 参照 黙示録19:7,8

キリストの花嫁にならなければならない

正しい行いを身に付けてキリストに迎えられる花嫁になる

神様の前にどうか?

主にあって正しい行いを成せるように祈り求めていく

 

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

原理:律法(ギリシャ語)

命の御霊の律法が記されている

それに従っていくなら罪と死の原理から解放されている

御霊の律法が心に律法が書き記される→信じて受け入れるなら実現する

キリストが御霊の教えを心に刻んで下さっている

歩みに関して大事なことを教えて下さる

私たちが歩む基本に関して心に御霊の律法が刻まれている→ただし信じることが条件→御心に沿った歩みが可能になる、書かれたもの(文字によるもの)から解放されて歩むことができる

 

8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

(霊でないもの)の概念を正しくとらえる

生まれつきのもの、よいものも悪いものもすべて

生まれつき持っているものは罪深いもの、そのことを認識する

普通にしていれば罪に入る→肉は罪深いもの→このことに聖書は何も期待していない→死に至る

イエス様は肉に関するものを解決するために来られ死んで下さった→幼子のようになって素直に信じて受け入れる

この世の認識と聖書のことは全く異なる

この世のことは肉のことばかり

 

8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

クリスチャン人生は神様の目から見て2種類

ある人は御霊に従って歩む

御霊によって歩むか肉に従って歩むか、決断次第で行き先が変わる

ある人は肉の欲求を満たそうとする

クリスチャンでも肉に従って歩んでいる人がいる→御心は無い

御霊に従って歩むにはとにかく祈る

御霊に聞いていくなら教えて下さる

何とか御霊によって歩んでいかれるように祈り求める→御霊に従っていく歩みを選択するならば律法の要求が十分に満たされていく

生まれつきの肉の欲求によって歩んでいくと、どの律法も難しくなってしまう

 

8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

心、思いの居場所がどこに向けられていくか?

この世のことばかりになっていないか?

肉に属することばかりを考えているなら肉に従う歩み

祈り、御言葉に時間を割く→御霊に属する歩み

霊的なことを生活に取り入れようとしないのは肉の歩み

 

8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

御霊に導かれて歩むことがポイント

 

8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

生まれつきのもので歩んでいるならイエス様の律法は実行できない

御霊による歩みができるように祈り求めていく

 

8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

or霊にあるかを常に吟味する

霊的に歩めるように祈り求めていく

 

8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

神の御霊が本当に住んでいるなら御霊の中に歩んでいる

Ex:賢い花嫁、愚かな花嫁(油を持っていない9

キリストの御霊が本当に内住しているかどうかを、よくよく吟味する

愚かな花嫁:肉の歩みに真最中のクリスチャン

キリストの声に従っていくなら罪から解放されていく→それが天国への鍵、歩むべきところへ入っていく

本当にキリストのものであるかどうかがポイント

 

8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

肉体は死んでいても霊は生きている

 

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

キリストの復活はたとえ

よみがえり、立ち上がる

罪の状態から立ち上がる

罪のある肉体をまとっていても霊が立ち上がっていく

聖霊によって生かされていく

生まれつきよいものを持っている人は危ない Ex:金持ちのたとえ

聖霊に従っていくときに弱くても罪があっても死ぬべき体も生かされていく

 

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

生まれつきの能力で生きていくようには召されていない

聖霊に頼って生きる

 

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

肉の歩み:自分の力に頼って歩む

自分の考えに頼り生まれつきのものに頼るのはNG

すべて聖霊に頼って歩む

生まれつきのものはすべて肉

肉により頼む奉仕と霊により頼む奉仕がある

聖霊により頼んだ歩みでないとトラブル続きになる

肉による判断や肉による決心は空しい、しかしそのことを通して神様は教えてくださる

すべて意味がある

自分に自信を持たないこと!!→神様に頼り聞く

 

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

神の御霊に導かれるなら神の子

           養子というニュアンスがある

生まれつきの子と養子は違う

養子は追い出される可能性がある

Ex 賢い花嫁:結婚が成立する(御霊に導かれるなら神の子)

  愚かな花嫁:結婚は成立しない(御霊に導かれないならサタンの子)

                この世に浸かっているクリスチャン

御霊に導かれるなら神の子らしく決断し、導かれる

神の御霊は導く、そのように歩んでいく

 

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

内側が聖霊に導かれるなら確信がある

 

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

子どもは相続するもの

神の子と言った時に相続する

ただし神の子としての歩みをきちんと全うした場合のみ→条件があることを理解する

条件:苦難を共にしているなら Ex:ペテロ、ヨハネ等の12弟子

どんな困難の時にもキリストにずっとついていった

今の時代もキリストと共に苦難がある Ex:ニュースレターの苦情

 

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

キリストと共に苦しむのは大変、しかし後に受ける栄光に比べて大したことではない

ゆえに物事に一喜一憂して不信仰になる必要は無い

(2010年の今でも通じる)の時の苦しみに会うのは当然 Ex:陰謀を企てられたり法廷に連れて行かれたりすること

それでも取るに足らないと言っている

本当に狭い道、正しい道を選ぶなら苦しむのは当然

賞賛されたら要注意(もし人から賞賛ばかりされていたら危ないと考えるのが正しい)

正しく御言葉を語り実践して苦しむなら喜んでよい

 

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

今の地球の色々な被造物は呪い(滅びの束縛)に入っている

 

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

子にされることを待ち望んでいる

子にされる:ギリシャ語、英語では「養子になる」の意味合い

正確には「神の養子になる」

クリスチャンの大きな勘違い:「実子」になると思い込んでいる

養子は追い出される可能性がある

その程度であることを認識する

きちんと神様の言うことを聞かないなら養子の身分を解消される

アブラハムに神はこのように言っている→「契約を結ぼう」と。

つまり、神様との関係は条件付であることを正しく理解する

正しく歩んでいくときに恵みを受ける

罪に入っていた体も主によって用いられる

 

8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

目の前で実現するのは望みではない

まだ実現していないことを祈り求め与えられていく

祈り求めていく時に形づくられていく

忍耐をもって祈っていくことが信仰

 

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

罪に陥ったり問題の中にいても御霊がうめきをもってとりなしてくださる→神様の憐れみによって滅びずに生かされている

参照 出エジプト32:9-12,14

とんでもない罪を犯している民すべてを滅ぼすと神は言われた

しかしそこでもモーセがとりなしをした→神の怒りがとどまった

滅びにいたる罪を犯していても聖霊がとりなしてくださる

聖霊からくるとりなしの霊がある

参照 出エジプト32:31-34

この時のとりなしも聞かれている

命がけのとりなしに主が答えてくださった

その都度その都度聖霊が私たちをとりなしに導いてくださる

 

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

私たちが神の御計画(働き)のラインに沿って歩んでいくならすべてがあい働いて益となっていく(たとえ、失敗も罪を犯しても人と仲たがいしてしまっても)

ただし今の時代の神の御計画に沿って歩んでいくことが条件

神の働きに反発してはダメ

◎警告の召しに従っていくことがポイント

 

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

キリストと同じ形になっていくことがポイント

健全な信仰生活を送っていくならキリストと似た姿に変えられていく

 

8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

人々に関して召しがある

      義になっていく

召しに応答していかない時に義とされるかどうか分からない

召しに従っていく時に義とされる

正しくされると栄光を見るようになる

召しに応答しないと成就しない、約束は絵に描いた餅のよう

召しに応答しないと実現しない

 

8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

神の召しに従っていくなら敵が来て恐れる必要は無い

たとえ困難の中に入っても・・・

神が味方になってくださる

 

8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

必要な事柄は与えられる

小さなことも大きなことも祈る

 

8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

罪があってもとりなしてくださる

 

8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

ほふられる羊

神の前に捧げる:祭壇の犠牲

羊を捧げる(たとえ) 羊はクリスチャンのたとえ

     全焼のいけにえ クリスチャンが聖霊の火で焼かれていくこと

祈りをもって働きをしていく

     羊は捧げられていくときに切り裂かれて命を失う

自分を捨て自分の十字架を背負ってキリストに従う→神の前に喜ばれる捧げもの、神の前に尊い歩み、羊は命を失う

ぶつかり合い、非難がある

 

8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

これらすべての困難は来る

もし困難が起きないなら要注意

御言葉を行えば圧倒的な勝利者になる

 

 

 

 

ローマ人への手紙7章

ローマ人への手紙7章 H22.11.7(1-11節),H22.11.14(12-25節)

 

7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。私は律法を知っている人々に言っているのです。

7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

旧約の民は律法に縛られた歩みをしていた

新約の民にも律法はある

良い律法が仇になることがある

参照 Ⅰヨハネ1:9

律法:自分が何も出来ないことを悟る、全部守ろうとしても無理

律法に縛られて行き詰っている人に良いニュースがある

そのことが結婚にたとえられている

:律法

:クリスチャン

 

7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

私たちが死んで解放される

律法に対して死んでいることを信じること

全部守ろうとする義務から解放されている

律法を守ろうとすることによって死とか罪に入っていってしまう

死者の中からよみがえった→信じることによって実現する

罪の生活から生きてくる→よみがえりを経験する

弱かったり罪があったりしても、よみがえり、実を結んでいく

 

7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。

律法は良いもの、しかし、守ろうとすると数々の罪の欲情が働く

 

7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

律法から解放されることが大切

2種類のクリスチャンがいる

●書かれていることを文字通り行っていく、ずっと言葉を忠実に行っていく→このことはパウロは推奨していない

●聖霊(新しい文字)によって仕えていく→律法が書き記されていく

聖霊がどのように私たちに内側に語られるか?主がどのように語ったか?

御霊が私たちの内側に語る

 

7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

律法は仇になる

パウロはむさぼりを抑えようとしたが逆に引き起こされてしまった

 

7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

律法を守ろうとすると逆に罪に支配されてしまう

 

7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。

7:11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

律法とは私たち自身がどのような者であるかを分からせるためのもの

律法を通して真の姿を理解するため、そこからが贖いへのスタート

私たちは律法から解放されている

律法は養育係として与えられている

 

7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

律法(十戒をはじめとする神教え)の役割について理解する

律法とは私たちの実態を悟らせるために神があえて与えてくださったもの

参照 ガラテヤ3:21-24

律法を通して罪の下にいることを理解する

内側にある罪がどうしようもないことを理解する→キリストに拠り頼んでいく

まず実態を知らないとどうにもならない

クリスチャンが真剣に罪と向き合っていないことを神様は教えてくださった

 

7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

律法は霊的なもの

律法=霊、罪=肉、体

もともとの意志や能力で、どんなに頑張っても肉の力はダメ

聖霊とは次元が違う

聖霊に拠り頼むなら律法をスムーズに行うことが出来る

霊的になっていくことによって律法を行っていくことが出来る

 

7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

「自分のしたくないことをしている」と認識しているならば聖書的にはあるべき方向へ向かっている

 

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

自分の内側に悪が宿っている→このことを正しくきちんと理解しないと歩みが進まない

       ↓

はっきりと理解することがポイント

15-20節のことに気づいてはじめてキリストに頼っていく

マイナスと思っていても神様に従っていくのがベスト

 

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

体の中に罪がある

生まれつきのものでやっていてもダメ

悪が住んでいて善が無いという理解が正しい

 

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

救いを求め、キリストを求める

 

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

キリストに救いがある

(クリスチャン) 夫(律法)

はじめは夫(律法)と結婚していた

でも、一人目の夫(律法)が死んで二人目の夫(キリスト)と結婚したら入るべき恵みに入った

参照 ルツ記1:1-4

マフロン:病、ききん キルヨン:消えうせる

ボアズ:キリストの家系、キリストにたとえられている 

ルツは一人目の夫であるマフロンが亡くなり、二人目の夫であるボアズ(キリスト)につながった

キリストに頼っていくことがポイント→祝福の道に入る

 

 

ローマ人への手紙6章

ローマ人への手紙6章

 

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

神様の恵みによって罪から解放されていくことがポイント→義の衣を着て入るべきところ(天の御国)に入る

 

6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

本来は私たちが死ぬべき、しかし、キリストが身代わりになって死なれた

死にあずかるバプテスマ:洗礼

キリストを信じる人は死を経験させていただける

なぜ、死を経験するのか?

私たちはアダム以来の罪がある

私たちの体は死に値すると定められている

どんなに修行を積んでも変わらない

聖書の方法ではない

私たちは生まれつきの命には神様から何も期待されていない

私たちの体は使い捨て、ゆえに再使用不可

 

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

私たちもキリストと同じ経験をする

十字架につけられる

よみがえる:引き上げる

復活の力で生きていく→このことを目に見える形であるキリストの犠牲を通して見せてくださった→これは神の方法

神の復活の力、命が与えられるときに、私たちは立ち上がる

キリストにあって死んだような者であってもよみがえる

キリストの死や復活を通して、このことを理解する

キリストが一人死んだのではなく、私たちも一緒に死んだ

どんなに罪があって弱い者であっても、よみがえる

倒れた状態から立ち上がっていく→このことを信じていくなら弱い部分も強められる、神の力が働く

キリストの復活の力で変えられていく

キリストの復活を経験する

傷跡(失敗等)があるまま、よみがえっていく→とにかく信じること!!

 

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

罪から解放される

罪の奴隷状態というのがある

なかなか抜け出せないもの

奴隷であっても、死んでしまったら解放される

神が私たちを罪の奴隷状態から解放してくださる→信じる人には実現する

罪に苦しむことがあっても信じるなら解放されていく

 

6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

神に対して生きる

多くの人、この世の人は神に対して死んでいる

肉体は生きていても神を知らない人は死んでいる人

神の前に生きていることがポイント→祝福、恵み、助けがある

神に対して生きている者になっていると神の語りかけが見えるようになる

神に対してだんだんと感覚が鋭くなっていく

 

6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

情欲:欲望

体の方向が死へ向かっている

体の言うとおりにしていったら、死へ向かってしまう

体を打ちたたいて祈ったり聖書を読んだりする

欲望を通して罪は入ってくる

エバのことは罪がどのように入ってくるかについて理解するもの

欲が罪に引っ張る

クリスチャンも罪に引っ張られていく、体の言うままにしていたら、罪の方向へ行ってしまう

 

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

罪から離れるようにする

 

6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

律法から解放されている

 

6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

こういう惑わしがある 罪に入っていったらダメ

 

6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

2種類のクリスチャンがいる

罪を犯しているとそれが普通になってしまう

クリスチャンはどちらかの奴隷になる

(死)or義(永遠の命)によって、行き先が異なる

参照 ローマ6:22,23

クリスチャンは2種類に分かれる

Ex 賢い花嫁or愚かな花嫁  良い麦or毒麦

きちんと聖書を読む

狭い門、狭い道を歩む、そして正しく罪に対応する

 

6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

元は罪の奴隷、そこから脱出しなければならない→祈り求めていく

主から教えていただいたことに心から服従するなら、義の奴隷となっていく

 

6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

罪の奴隷:義から自由(義と関係が無い)

義の奴隷:罪から自由(罪と関係が無い)→罪から解放される→永遠の命に行き着く

 

6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

罪にずっととらわれていると行き着くところは死、滅び、裁き

 

6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

どちらかの奴隷にならなければならない→神の奴隷を選ぶ

 

6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

神様の言われたことを行っていくときに、永遠の命に入る

 

この章は、聖書の一つの法則を語っている

義の奴隷状態が罪から解放され、入るべきところに入る

 

 

 

 

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